哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「期待しすぎ」

「もっと理解してもらう努力をした方がいい」
「相手が理解してくれるのを期待しすぎ」

と、言われることがよくある。

僕が、相手に、何か意見したり説明したりする時だ。その相手や、そこで聞いている人から、そう言われる。
僕は、自分の言っていることが理解されないと、イライラする。イライラすると言葉も荒くなる。そうすると聞いている相手もイライラする。そういう状況の中で、相手や周りから、上の発言が僕に投げかけられる。


僕はずっと、これらの発言に対して、なんとなくピンときていなかった。
それがなぜなのか、分かってきた気がする。

おそらく、僕と相手との認識内容の違いが原因だ。

上に書いたような状況になる時、僕は相手に対して、「この人は僕の言うことを理解したいと思っているだろう」という認識を持っているのである。
そうすると、僕は僕の言うことを相手に理解してもらいたい、相手は僕の言うことを理解したい、というふうに、お互いの利害が一致しているということになる。だから、僕としては、僕と相手はお互いに、或ることの理解をもたらすための「協力者」といったような認識になる。だから、僕が相手に一方向的な仕方で理解「させる」ための努力は、僕は基本的にはいらないと思っている。

しかし上に書いたようなお互いにイライラする状況になる時、おそらく、相手の認識は僕の認識とは違っている。
相手は、僕の言うことを理解したいという自己認識を(あまり)持っていないのだ。だから、相手としては、理解して「あげよう」としている、といった認識になっているのだと思う。だから、相手は僕に対して、理解「させる」努力をすべきだと思っているのだろう。
(本当にそうなのか本人たちに訊いてみたいが、そういう人たちと僕とはあまり仲が良くない場合が多いので、気軽に訊けない……苦笑)

だから、お互いにイライラしている時、
僕は、「理解「したい」くせになんで理解「する」努力をしないんだ」と思っているし、
相手は、「理解「させたい」くせになんで理解「させる」努力をしないんだ」と思っている。


この場合、認識内容の正誤について、二つの場合が考えられる。

一つ目は、僕の持っている、「相手は僕の言うことを理解したいと思っている」という認識が誤っている場合。つまり、相手が僕の言うことを理解したいと思っていない場合。

二つ目は、相手の持っている「私は彼の言うことを理解したいとは(あまり)思っていない」という認識が誤っている場合。つまり、相手が僕の言うことを理解したいと思っている(けれど、何らかの理由でその思いが遮断されている)場合。

(二つ目の場合を想定すること自体に対して嫌悪感を抱く人もいるだろうか?)


一つ目の場合だと僕が認識すれば、僕は、理解してもらいたい気持ちがそんなに強くなければそこで話をやめるだろうし、もしその気持ちが強ければ、相手に理解してもらえるようにもっと努力するだろう。

二つ目の場合だと僕が認識している限り、僕は基本的にはそのまま話し続けるだろう。話せなくなるほど疲れるとか、話せなくなるほど不快になるとかなるまで続けたがるだろう。
なぜそれほど話を続けたいのかというと、「本当は理解したいのにそれを遮断しようとする」ことに対して、つまり、「自分の気持ちに蓋をして、見ないようにしている」ことに対して、僕は、特に苛立つ質だからである(なぜそのような質なのかという問いは立てられる?)。自分でも他人でもいいが、そういう人がいると苛立ってしまうので、何とかそれを変えられないかと思う場合が多い。

一番最初に書いた、「もっと理解してもらう努力をした方がいい」「相手が理解してくれるのを期待しすぎ」と人から言われるのは、僕がこのような認識で相手と話している場合である。だから、僕の言っていることが相手に理解されない場合の、その、僕の言っていることとは、基本的には、「あなたは自分の気持ちに蓋をして、見ないようにしている(→蓋をせず、ちゃんと見ろ)。」ということである(その時々の文脈に応じて色々な言い方にはなるだろうけど)。「この人は僕の言うことを理解したいと思っているだろう」と僕が思うのも、僕の言うことが「自分の気持ちに蓋をせず、ちゃんと見ろ」ということだからである。なぜなら、あらゆる「気持ち」はそれが存在する限り、「存在したい」はずだからである。蓋をされたくないはずだからである。だから、あらゆる「気持ち」は、人に対して、「蓋をせず、ちゃんと見ろ」と思っている。そして、その気持ちがその人において生じているということはすなわち、まさにその人が、自分の気持ちについて「蓋をせず、ちゃんと見たい」と思っているということである。そう思っているのに、そう思っていることに蓋をしている(ように僕からは見える)から、僕は、その人に対して苛立ち、話し続けてしまうのだ。

(やはりここでも、
・僕の認識内容が誤っている場合=相手が自分の気持ちに蓋をしていない場合
・相手の認識内容が誤っている場合=相手が自分の気持ちに蓋をしている場合
が想定される)


しかし、それほど、「自分の気持ちに蓋をして、見ないようにしている」ことが嫌だという思いがあるなら、それをどうにかするための「努力」をするはずで、もししているしたら、「もっと理解してもらう努力をした方がいい」などと言われるはずはない。でも実際は言われる。僕は努力をしていないようである。僕としても、自分が努力の度合いを高めることをある地点で止めているという感じはしている。理解させる努力の度合いを高めなければ、相手は理解しない。

それでは、なぜ僕は努力の度合いを高めることを、ある地点で止めるのか?

……

なんか、この問い方、「僕は相手に理解させる努力をした方がいい」ということを前提にしている匂いが微かにして(まあ、僕が自分でさせてるんだけど)、嫌だな……

ちょっと、一旦、保留。