哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

嫌われ松子の一生、愛、光

映画『嫌われ松子の一生』を観た。

愛ってなんやろ。
愛ってなんやろ。

ひとりぼっちで、ぼろぼろになって、自らの全てにおいて、生きている人たち。

無意味に、生きる。
無意味に、死ぬ。
全て、生きる。

生きる、だけ。
ただ、生きる。

何のためでもなく、
誰のためでもなく、
自分のためなのかも分からず、
ただ、そこで、自分を生きる。

そうしたら、苦しむ。
馬鹿だから、苦しむ。
愚かな人がそのまままっすぐ生きたら、
そりゃあ、愚かな人生を送ります。

不幸、なのかもしれない。
いや、明らかに、不幸である。
でも、なんと明るい不幸だろうか。

神は愛である……

神は光である……

「私たちがキリストから聞き、あなたがたに告げる知らせとは、神は光であって、神には闇がまったくないということです。
もし私たちが、神と交わりを持っていると言いながら闇の中を歩いているなら、私たちは偽っており、真理を行ってはいません。
しかし、神が光の中におられるように、私たちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめます。」(1ヨハネ1・5-7)

「神のうちにいるという言う者は、イエスが歩まれたように歩まねばなりません。」(1ヨハネ2・6)

「光の中にあると言いながら兄弟を憎んでいる者は、今も闇の中にいます。
兄弟を愛する者は光の中におり、躓くことはありません。」(1ヨハネ2・9-10)

「兄弟たち、世があなたがたを憎んでも驚いてはいけません。
私たちは、死からいのちへ移ったことを知っています。私たちは互いに愛し合っているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。
自分の兄弟を憎む者はすべて人殺しです。すべての人殺しはその内に永遠のいのちを持っていないことを、あなたがたは知っています。
キリストは私たちのために生命を捨ててくださいました。そのことによって私たちは愛を知ったのです。私たちも兄弟のために生命を捨てるべきです。」(1ヨハネ3・13-16)

「子どもたちよ、言葉や口先ではなく、行いと真実によって愛しましょう。
これによって私たちは、自分が真理から出た者であることを知り、神の前で心を安んじていよう。
たとえ、私たちの心が責めていてもです。神は私たちの心より大きく、すべてを知っておられます。」(1ヨハネ3・18-20)

「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、信じています。
神は愛です。その愛にとどまる者は神にとどまり、神はその人にとどまります。
これによって神の愛は私たちのうちに全うされ、裁きの日に確信を持つことができます。この世にあって、キリストと私たちは同じであるからです。
愛には恐れはありません。完全な愛は恐れを投げ捨てます。恐れには懲らしめがあり、恐れる者は愛において全うされていないからです。」(1ヨハネ4・16-18)

……

「これらのことを私たちが書くのは、私たちの喜びが満ち溢れるためです。」(1ヨハネ1・4)





引用は日本国際ギデオン協会発行の新約聖書(泉田昭訳)より。