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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

恐怖か不安か

形式的暴力には形式的暴力で対抗しなきゃやっていけない、のだろうか。

幸せとか人間らしさとかの前に、目前に迫る「命」の危険に対処しなきゃいけない場合は、形式的暴力がさしあたり有効であると言える気はする。

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あらゆる差別は形式的暴力である。もし、形式的暴力が、命の喪失の恐怖への対処、あるいはもっと広く言えば、「存在しなくなること」の恐怖への対処を求めることで生じるとしたら、一般に差別「する側」となるマジョリティも、そういう恐怖を感じているということになる。
その恐怖を解消あるいは隠蔽するために、おそらく形式的暴力(差別)は求められる。だとしたら、形式的暴力(差別)を無くしていくためには、「死への恐怖」を克服していかなければならない、ということになる。それはおそらく、安全保障や社会福祉を充実させること、だけでは足りないだろう。安全保障や社会福祉の充実は、結局、死への恐怖に動機づけられているからだ。安全保障や社会福祉を充実させようという動き自体が、死への恐怖があることの証左である。
ハイデガーの言葉を借りるなら、「落命に対する恐怖」ではなく、「死に対する不安」でなければいけない、ということになろうか。より根源的なのは「不安」である。「不安」を隠蔽するために人は「恐怖」する。そして、「対処」しようとする。死において「不安」でいることとは、死に直面することである。死は常に可能なのだと、明らかに、認識することである。「死は現存在の最も固有な可能性なのである」と、明らかに、認識することである。死を遠ざけてはいけない(死を遠ざけることは恐怖に基づく)。死とは、おのれ自身なのだ……

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「私」にできるのは、それである……
「私が」そうする、ということしか、ここではありえない。
死とは「おのれの」可能性だからである。

「死は、そのつど現存在自身が引き受けなければならない一つの存在可能性なのである。死とともに現存在自身は、おのれの最も固有な存在しうることにおいて、おのれに切迫している。[略]現存在の死は、もはや現存在しえないという可能性なのである。現存在がおのれ自身のこのような可能性としておのれに切迫しているときには、現存在は、おのれの最も固有な存在しうることへと完全に指示されている」(250)

「死のうちへの被投性が現存在に、いっそう根源的に、またいっそう切実に露呈するのは、不安という情状性においてなのである。死に対する不安は、最も固有な、没交渉的な、追い越しえない存在しうることに「直面する」ときの不安にほかならない。[略]こうした不安の理由は、現存在の存在しうることそのものなのである。死に対する不安は、落命に対する恐怖と混同されてはならない。死に対する不安は、個々人にあらわれる気ままな偶然的な「弱々しい」気分ではなく、それは現存在の根本情状性なのだから、現存在がおのれの終わりへとかかわる被投的な存在として実存していること、このことの開示性なのである」(251)





引用は、原佑・渡邊二郎訳『存在と時間Ⅱ』中公クラシックスより

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追記(2020年8月5日)

この文章の最後の2つの引用を除く部分をある友人に送った。その友人は別の友人にこれを見せた。そうしたらその人は、僕が自殺する気なのではないか、と心配したらしい(もともと僕が文章を送った友人は僕の文章の傾向みたいなものをだいたい分かっているので、当初そこまでの心配はしなかったらしいが、その別の友人の心配を受けて、あとで僕に連絡をしてくれた)。たしかに、僕のことやハイデガーのことをあまり知らない人からすると、そう思えてしまうことはあるだろう。

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ハイデガーを読んで自殺する人がいるとしたら、その人はハイデガーを誤読していると僕は思う。

それについてはこの記事で書いている。

https://tani55sho44.hatenablog.com/entry/2020/06/03/102134