哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

ゆるすこと

中学生の時、学年全員の前で謝らされたことがある。

中学3年の修学旅行の夜だ。

理由は、函館市内での班ごとの自由行動の時、班内で分かれて行動したことだった。
でも、分かれて行動してはならないというルールはどこにも書かれておらず、口頭での説明も事前にされていなかった。
しかも、分かれて行動しようとした時、ある先生を見つけた僕たちは、その先生に「分かれて行動してよいか」と尋ね、「いい」という返事を貰っているのだ。
(あとで聞いたところによると、その先生は、「路面電車が満員なので班の何人かが次の電車に乗る」という意味で僕らの言葉を理解したらしい。)
(「分かれて行動してよいか」を尋ねたということは、それがルール違反である可能性があると僕らが想定していたことになる、が……)

僕らが宿に戻った時にはすでに、分かれて行動したことを先生たちが把握しており(班内で分かれたもう一方のメンバーたちが僕らよりも早く戻ってきていたからだ)、僕らは担任の先生に叱られた。分かれて行動した理由を話そうとしても、遮られた。
そして、夜に行った学年全員でのミーティングで、みんなの前に立ち、謝った。

……

後日、担任の先生から、「言い分も聞かずに一方的に叱って悪かった」と、謝られた。
先生なりに、何かを感じたのだろう。

……

今なら、担任の先生の「言い分を聞かずに一方的に叱る」という行動の選択は、「学校」という特殊な環境と、その下で「先生」という人たちの罹らざるをえないある種の「病」によって引き起こされたものなのだろうと、なんとなく分かる。

また、僕ら以外の人たちにとっては、明示的なルールがなくても「班内で分かれて行動してはならない」ことは「当たり前」であり、僕らがその「当たり前」を共有してなかった、という不運もあった。

それに、担任の先生が後日、「言い分を聞かずに一方的に叱った」という認識を僕らに語ったことが、僕にこの先生を信頼させた。

……

でも、いまだに、しこりが残っている。
すでに悪性ではないが、しこりはしこりなので、触ると違和感がある。

たぶん、分かれて行動した理由をその先生に対して話していないこと、そして、学年全員の前で謝ったこと、この2つがしこりの大きな原因だと思う。
(……だから、悪性では「全く」ない、とは言えないかもしれない。とりわけ後者に関しては、少しだけ「恨み」が残っているような気がする。)

言い分を話していないことに関しては、話せばいいだけだと思う。先生に会う機会があれば、話そうと思う。先生に、ただ聞いてほしい、と思う。

でも、学年全員の前で謝ったことに関しては、「こうすれば解消する」という単純な方法は思い浮かばない。
やっていないことはやればいいけれど、
やってしまったことを、やっていないことにすることは、できない。
これに関しては、僕が、僕の問題として、「ゆるす」ということをするしかないのだと思う。「誰を」ゆるすということはなく、ただゆるすということ。担任の先生などの他人から何をしてもらっても本質的には意味はないだろう。



「ゆるすこと。そんなことはできない。だれかがわたしたちに害を加えたとき、わたしたちの中にはさまざまな反応が生じる。復讐したいというねがいは、何より本質的な均衡回復へのねがいである。こういう次元とはちがった次元で均衡を求めること。自分ひとりで、この極限にまで行きつかねばならない。そこで、真空に接するのだ。(「天はみずから、助くる者を助く……」)

頭痛。そんなときには、痛みを宇宙へと投げだしてみると、痛みがましになる。だが、宇宙の方は変質する。痛みをもう一度もとの場所へ戻すと、痛みはさらにきつくなるが、わたしの内部には、何かしら苦しまずにいるものがあり、変質せずにいる宇宙とそのまま触れあっている。さまざまな情念に対しても、同じように行動すること。情念を下へ降ろし、一点にまで引きもどし、そんなものにかまけないこと。とりわけ、ありとあらゆる苦痛をこんなふうに扱うこと。苦痛をものに近づけないようにすること。

均衡を求めるのはいけない。想像でそうしているにすぎないのだから。復讐はそうだ。たとえ、実際に自分の敵を殺したり、苦しめたりしていても、ある意味では、想像でそうしているにすぎないのだ」(シモーヌ・ヴェイユ重力と恩寵』田辺保訳 ちくま学芸文庫 p17-18)