哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

知ることと、抵抗

最近、セクシュアルマイノリティについて知りたいと思い、本を読んでるんだけど、なんだか、いつもより「疲れる」感じがする!

これは、「抵抗」だろうか……

ちなみに、精神分析における「抵抗」は、例えばこんな説明がされています。

「個人が意識化したくない無意識的な衝動・欲求・感情・葛藤が意識化されそうになったとき、それらが意識に入り込んでくるのを回避しようとする防衛反応です。

精神分析において、こうした無意識的なものは、現在の意識的な自分の安定性を崩す自我の脅威になると考えます。

そのため、無意識の内容が表面化されそうになったとき、それをそのまま言語化あるいは表面化させないように、抵抗という作用が働くのです。」
https://psychoterm.jp/clinical/theory/resistance

……

この「疲れる」感じは、やっぱり、これまでの僕の安定した思考・行為パターンを崩しうるものがセクシュアルマイノリティ関連の本にはあるということを表しているのか。

僕は、おそらく、セクシュアルマイノリティではない。僕に対して身体的・社会的に与えられている性と僕の性自認は一致しているし、性的指向は異性である。

つまり、僕は、性的には、いわゆるマジョリティである。

マジョリティがマイノリティ関連のことを知ることは、マジョリティが無自覚であったことを知ることであり、マジョリティの既得権益を知ることであり、そして、「知る」ということは、それを「解体する」ことの第一歩でありうる。

やはり、自分を気分よく生きさせてくれていたシステムを壊すのは嫌なものである。

嫌なことをするのは疲れる。

だから僕は疲れているのだろうか。

……
……

と言っても、まだ、自分が具体的にどのようなことを知ってどのようにして解体されているのかは、それほど僕の中で意識化されているわけではなくて。

……
……

それに、セクシュアルマイノリティ関連の本を読んでいるから疲れているのではなくて、単に寝不足だとか、夏バテだとか、そういう理由なのかもしれない。

……
……

まあ、それはさておき、、

……

知る、ということには、知りたくないことを知る、ということももちろん含まれる。

知りたくないこととは、それを知ることによって今の自分が壊れうること、である。

壊れたら、それまでとは別のかたちでまた作り直す。

それの繰り返し……

知ること、あるいは、学ぶこと。

僕にはそれができていますか

なんて

……
……
……

うーん、なんか

……

分からん!!(何が

……

追記(2020年6月22日)

セクシュアルマイノリティについての文章でも、ジュディス・バトラーとか竹村和子とかの、いわゆる哲学・思想系の文章なら、読んでもそんなに疲れる感じがしない。

単に文章のタイプに対する慣れの問題なのか。
それとも、哲学・思想系の文章は僕の意識化したくないことについて書かないでいてくれるのか。

と思っていたら、中島義道の『差別感情の哲学』は読んでいて疲れる。

まあ、中島の文章はバトラーや竹村の文章とは質が違うけれど……

……

まだ、分からん!!

……

追記(2020年6月22日)

自分を観察すると、おそらく、
具体的な話の時は疲れるが、
抽象的な話の時は疲れない、
ようである。

具体的な話とは、「今の社会の状況はどうなっているのか」「今の自分の状態はどうなっているのか」を知るとか、「その社会の中で、その自分において、自分はどのような行為をしていけばいいのか」を検討する、などのことである。これは疲れる。

……

追記(2020年6月24日)

具体的な話の時は疲れるが、
抽象的な話の時は疲れない、

とは必ずしも言えないようだ。

例えば、非常に具体的な話、つまり、ある特定の人物がある特定の場面でどんな感情になりどんな行動をとったかということが詳細に書かれている文章を読むことはあまり疲れない。


あとは、やはり、「責められている」と僕自身が感じる時、疲れる。
つまり、ある立場を批判する文章を読む時、単純にフラットに読むのではなく、批判されているその立場と自分自身とを強く同一化させて読んでしまう場合や、僕が勝手に「〇〇は悪い」という意味を文章の中に読み込んでしまう場合、つまり、「Aは〇〇である」としか書かれていないのに、「〇〇であるAは悪い」という意味を読み込んでしまう場合である。
しかし、このような読み方は、僕の経験する過程としておそらくある程度必要なものであるだろうと思う。なぜなら、セクシュアルマイノリティに関する本を読むそもそもの僕の目的の内に、僕において生じているこの「抵抗」の意味を知ることが含まれているだろうからである。


また、これは女性差別に関わることだが、僕にとって、女性の発言の方が男性の発言よりも受け入れやすいことが多い。ある本を読んでいて、最初、その著者を男性だと思い違いをしたまま読んでいた時は「抵抗」が強かったのだが、ある記述から著者が女性であると分かった瞬間、「抵抗」がスッと弱まるのを感じた、という経験をした。このメカニズムの詳細は今のところ分からないが、僕の中の女性差別性の働きによることは確実だと思う。