哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

特別

砂川秀樹は、著書『カミングアウト』の中で、ゲイやレズビアンのカミングアウトにおいてカミングアウトをした側にもそれを受けた側にも何かしら変化が生じるとした上で、次のように述べる。

「このように書くと、ゲイやレズビアンだけが特別な承認を求めているかのように感じる人もいるかもしれない。あるいは、なぜ自分も変わることがあるようなカミングアウトを受けなくてはいけないのか、と。だが、実は、ゲイやレズビアンが自分を伝えて認められることは、多くの異性愛者が徐々にやってきたことを、やりなおしているに過ぎない」(p159)
(ちなみに、この本は「ゲイやレズビアン」のカミングアウトにテーマを限定していますが、その限定の理由も本の中に書かれています。)

……

「特別な承認」。

僕は基本的には、セクシュアルマイノリティに対して「特別な承認」をする必要はない、と考えている。
それはもちろん、全ての人に対して「同じ承認」をすればいいという考えではない。例えば、全ての人に対して「異性愛者」という「同じ承認」をするのはおかしいだろう。人の中には異性愛者もいれば同性愛者もいるからだ。
しかし、それを突き詰めれば、一人ひとりで必要な承認の内容は違ってくる。「全く同じ人」はいないからだ。いや、もっと突き詰めれば、一人の人においても、瞬間ごとに必要な承認は変わるかもしれない。一秒後の自分と一秒前の自分とは「全く同じ人」ではないからだ。
そういう意味では、必要な承認とは、ある意味、一人ひとりのあらゆる人があらゆる瞬間において「特別な承認」であると言える。そして、全ての承認が「特別な承認」ならば、それを裏返して言えば、「特別な承認はない」ということにもなる。僕が「特別な承認は必要ない」と言うのは、そういう意味である。

「特別な承認はない」の“だから”承認の内容に様々な「差異がある」のは当然である。

……

例えば、「セクシュアルマイノリティの人に対しては、そうではない人には必要ないような配慮も必要である」というようなことが言われる。

セクシュアルマイノリティの人とそうではない人とは、その個人的な性質も、彼らを取り巻く社会的状況の意味も違うのだから、必要な配慮が違うことは当然である。

……とは思うのだが、先ほど挙げた「セクシュアルマイノリティの人に対しては、そうではない人には必要ないような配慮も必要である」というような言葉に出会うと、僕はある種の「負担感」を抱いてしまっていた。
それは、当然と言えば当然ではあるのかもしれない。セクシュアルマイノリティではない僕が、セクシュアルマイノリティではない人に合わせてつくられている社会で身に着ける配慮は、おおかたセクシュアルマイノリティではない人たち向けのものなのだから、それに慣れた僕がセクシュアルマイノリティの人向けの配慮を学ぶことは、僕が「新たに」やらなければいけないことであり、僕が「慣れていない」ことである。「慣れていない」ことを「新たに」やるのが「負担」なのは当たり前である。「労力」がいる。頭や体の、今まで使っていたのとは別の筋肉を使うからだ。


その負担感だけならいいのだ。

でも僕は、それ以外に何か余計な負担感も抱いてしまっているように感じていた。
それが何なのか、一番最初に挙げた砂川の文章を読んだ時に少し分かった気がする。

セクシュアルマイノリティの人に対しては、そうではない人には必要ないような配慮も必要である」というような言葉を聞く時に僕の抱いていたイメージは、僕が今まで身につけてきた配慮にセクシュアルマイノリティ向けの配慮を「プラスする」イメージだった。つまり、僕がいま持っている配慮パターンが50だとして、そこにまた50付け加える、というイメージである。そのイメージが余計な負担感を僕に抱かせていたのだと思う。「ああー、プラスしないといけないのかー」と僕は思う。「プラスする」ことは僕にとって負担である。


砂川の文章を読んで、そうではない捉え方の方が適切であると思った。

ではどのような捉えた方が適切か。
それは、「マイナスを埋める」という捉え方である。
「プラス」に注目するのではなく、「マイナス」に注目する。

50に50をプラスするのではなくて、セクシュアルマイノリティの人たちにとっての50を目指すのである。
人間には差異がある。50を、人間として当然受けるべき配慮だとしても、その50の内実は人によって差異がある。その人その人に合った配慮がある。
セクシュアルマイノリティの人たちに対して、そうではない人たち向けの50の配慮をしても、それはセクシュアルマイノリティの人たちにとっては、10程度の配慮にしかならない、だから、その足りない分の40を、セクシュアルマイノリティの人たちの基準に合わせて埋めるために、僕らは新たに学ぶのである。
「特別な配慮」ではなく、「(その人その人によって異なる)標準的な配慮」を実現するために。

そう思った時、これまで僕が感じてきた負担感が弱まった感じがした。

……

「プラスする」のも、「マイナスを埋める」のも、やってることは同じじゃないか、何が違うんだ、と思われるかもしれない。

セクシュアルマイノリティの人に対しては、そうではない人には必要ないような配慮も必要である」というような言葉を聞く時、僕は、やっぱり、「特別な」の匂いを感じてしまっていたのだと思う。そうすると、「特別なことをなんでしなきゃならないんだ」と思ってしまう。「余計なことを」と思ってしまう。それは、ともすれば排除に繋がってしまう。「余計なことを要求してくる余計な人たち」、というふうにセクシュアルマイノリティの人たちを捉えてしまう。

そうではなく、「標準的な」ことすらセクシュアルマイノリティの人たちには実現されていない、と捉えれば、それを実現するのは「当たり前」と思える感じがする。
「特別な」と思っていると、それをする努力は「正しい人の行い」「善人の行い」「聖人の行い」のように感じてしまう。そうすると、「僕には無理かも……」と感じてしまう。それが昂じると「排除」に繋がってしまう。
対して、「標準的な」ことを実現するのだと考えると、「なあ〜んだ、そのくらいのことなのか」と思えるというのもあるし、何よりも、「それだったら頑張りたい」と思える、つまり、「内発的」な欲望としてそれを求めることができるようになる。「標準的な」ものもないなんて嫌だもん。ああ、そうか、「特別な」の場合、「なんで僕には与えられないものがあの人たちには与えられるんだ、しかもなんでそれを「僕が」与えなきゃならないんだ、なんで僕が与えてもらえないものを他の誰かに与えるために僕が頑張らなきゃいけないんだ、ズルい!」って思っちゃうんだ。だから「僕には無理」って思っちゃうんだ。

あー、なるほど

おー

……

うーム