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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「ガヤトリ・スピヴァクとの対話」を読んで

 2008年に作品社から出版された、竹村和子編著 『ジェンダー研究のフロンティア5 欲望・暴力のレジーム 揺らぐ表象/格闘する理論』の中に、「ガヤトリ・スピヴァクとの対話」が収録されている。そこで竹村和子は以下のようにスピヴァクに問うている。

「最後に一つ、個人的な短い問いをさせてください。しかしこれがわたしの最大の関心事でもあるのです。[略]政治と文学、マルクス主義脱構築はそれほど容易く調停できるものではありませんし、両者を繋ごうとする試みは自己崩壊をもたらしがちです。あなたの著作が難解な理由の一つが、これではないかと思うのですが、しかしわたしは、このような力業に挑戦し続けているあなたに、また単純化した断定的言述には纏め上げないあなたの学問的誠実さに、深い尊敬を抱いています。語りうるものの、いわば極北に身を置いて、あなたは仕事をされ、そしてときに詩的跳躍をされます。そのような瞬間がわたしはとても好きです。ここで個人的なお尋ねなのですが、あなたの脱構築的な部分が、あなたのマルクス主義的な主張とどうしても折り合いがつかないと感じられるような困難な場面において、あなたはどのようにお感じになっておられるのでしょうか。これはわたし自身のアポリアでもあるのです。レズビアンに向けられる不正義の政治的是正を個人的には求めつつ、脱構築的著作においてレズビアンの欲望を切り崩しているわたし自身のアポリアです」(p216)

 「脱構築 déconstruction」は元々デリダによる造語であるが、その元の意味を超えて、すでに一般名詞となりつつある。wikipediaでは以下のように説明されている。

 「脱構築(だつこうちく、仏:déconstruction、英:deconstruction)は、「静止的な構造を前提とし、それを想起的に発見しうる」というプラトン以来の哲学の伝統的ドグマに対して、「我々自身の哲学の営みそのものが、つねに古い構造を破壊し、新たな構造を生成している」とする、20世紀哲学の全体に及ぶ大きな潮流のこと」

 さしあたりこの説明に従って考えよう。

 竹村は、「これは私自身のアポリアでもあるのです。レズビアンに向けられる不正義の政治的是正を個人的には求めつつ、脱構築的著作においてレズビアンの欲望を切り崩しているわたし自身のアポリアです」と言っている。
 レズビアンの政治的境遇を改善してレズビアンの欲望を実現させようとすると同時に、そのレズビアンの欲望を生み出す「古い構造」を「破壊し、新たな構造を生成」させようとしている。つまり、端的に言えば、レズビアンを肯定しようとすると同時にレズビアンを否定(し、新たなものを生成)しようとしている、というアポリアに竹村はあるのである。
 竹村によれば、スピヴァクも同じような状況にある。つまり、マルクス主義脱構築とのあいだのアポリアである。貧困な者たちの境遇を是正してその人たちの欲望を実現するという仕事と、貧困な者たちの欲望を生み出す「古い構造」を「破壊し、新たな構造を生成」させるという仕事とのあいだのアポリア

 これに対するスピヴァクの応答はこうだ。

「最後に脱構築についての質問ですが、わたしはつねに脱構築を試しています[略]。
 実際わたしが故国や中国の農村で仕事をしているときには、脱構築的に語っていることが多いのです。とりわけ西ベンガルのプルリヤー県の女たちとは、脱構築を語りました。彼女たちは聡明な人たちですが、制度的教育を受けていません。これはわたしの知的な挑戦になりました。制度的教育を受けていないときに、それを倫理的主体と認めることができるでしょうか。その人の思考方法は、そのプレッシャーに耐えうるのでしょうか。あるいはそのように語れるのは、大学の教室のなかだけでしょうか。これはわたしが引き続きやろうとしている唯一の挑戦です[略]。
 わたしの母はわたしが書いたものをすべて読みました。けっして難しいと言って文句を言いませんでした。『グラマトロジーについて』を英訳したとき、彼女に一冊贈りました。その序文を読んで、彼女はわたしに「ガヤトリ、この考えには仏教の〈空〉の教えに共通するものがあるね」と言いましたが、彼女はまったく正しかったのです。さらに彼女はベンガル語でこう尋ねました。「でもガヤトリ、それではおまえは、これとおまえの共産主義とをどう折り合いをつけるのかい」。この話をデリダにしたら、デリダはわたしに「ガヤトリ、君はお母さんに耳を傾ける必要があるね」と言いました。そう、ここにあなたへの答えがあるのです!」(p229)

 スピヴァクは「知的な挑戦」と言う。「制度的教育を受けていないときに、それを倫理的主体と認めることができるでしょうか。その人の思考方法は、そのプレッシャーに耐えうるのでしょうか」。貧困な女たちの多くが、制度的な教育を受けられない境遇にいる。そうなれば、自分が現に生活しているところの、既存の社会構造や既存の価値観を批判的に見ることが難しくなる。その社会(における自分の境遇)を当たり前としてしまい、それを変えようとか、変える必要があるとか思うことが難しくなる。そのような人たちは、脱構築(=既存の構造の破壊と再生成)の「プレッシャーに耐えうるの」か。外からその人たちを眺めるわたしたちはそこで、「耐えられないだろう」と決めつけてしまいがちなのかもしれない。
 スピヴァクはしかし、そこで問い続け、「彼女たち」と向き合い続けようとする。「これはわたしが引き続きやろうとしている唯一の挑戦です」と言う。
 そしてそのことはスピヴァクにとって、彼女たちを「倫理的主体」と認めることなのである。知的な脱構築的語りをともにすることができる主体であると相手を認めることが、「倫理的主体」として相手を認めるということだ。「知的」であることと「倫理的」であることがここで重なる。では「倫理的」であるとはどういうことか。

 「さらに彼女はベンガル語でこう尋ねました。「でもガヤトリ、それではおまえは、これとおまえの共産主義とをどう折り合いをつけるのかい」」とスピヴァクは書く。

 スピヴァクの母がスピヴァクに「ベンガル語で」尋ねたというところに注目してほしい(スピヴァク西ベンガル州カルカッタ出身である)。正確に言えば、母が「ベンガル語で尋ねた」ことにではなく、そのことをスピヴァクがこの原稿に「敢えて書いた」ことに、である。スピヴァクは敢えてそう書くことを選んだのである(この対話を行うにあたり、事前に問いがスピヴァクへ伝えられ、スピヴァクはその応答のための原稿を作っている)。
 おそらく、「ベンガル語」という「母語」で尋ねたという事態には何か「個人的」なニュアンスがある。言い換えるなら、つまり、「ひとりのひと」から「ひとりのひと」への語りかけ、というニュアンスである。この、「ひとりのひと」から「ひとりのひと」へ、ということが、「倫理的」ということなのではないだろうか。そしてその、「ひとりのひと」から「ひとりのひと」へを可能にするのが、「知的」であること、つまり、「脱構築的」であることなのだ。脱構築は、ひとが囚われている構造を切り崩す営みである。それは決してひとをひとでなくす営みではない。むしろ、ひとをよりひとにする営みなのだ。そしてそれは、「ひとりのひと」と「ひとりのひと」が出会うことを可能にする営みなのである。

 スピヴァクは竹村への応答の最初、「聞かれること」と「話すこと」がほぼ同義であることに言及したあと、「サバルタンは語ることができるか」という自らの論文のタイトルについて次のように述べている。

「フランス語訳は “Les subalternes peuvent-ils parler ?”で、「サバルタンたち(複数形です)は自分を表現することができるのか」という意味ですが、これは誤りです。なによりもまずわたしが語っているのは、一人の女のサバルタンのことですから」(p221)

 「なによりもまずわたしが語っているのは、一人の女のサバルタンのことですから」。彼女は続けてこう述べる。

「そしてフランス語で「語る」という意味がより明確になるのは、「言葉を受け取る」(“prendre la parole”)という言い回しにおいてです。わたしは語り、あなたは聞く。つまり、「言葉を受け取る」(“prendre la parole”)ということです」(p221)

 「言葉を受け取る」ことができるのは、「わたしは語り、あなたは聞く」という形式においてである。それに対して、おそらく、「構造」は「言葉を受け取る」ことができない。「構造」は「わたし」でも「あなた」でもないからだ(もちろん、何の構造にも囚われていない人というのは考えられえない。だから、重要なのは、脱構築「する」ことであって、脱構築「したあと」(そんな状態はありえないのだが)ではない。脱構築「する」その瞬間=時間に、「わたし」や「あなた」が辛うじて顔を覗かせる)。だから、わたしたちは脱構築をし続けなければならないのだ。わたしたちは、「ひとりのひと」だからである。いや、正確にはそうではなく、脱構築的であることが、初めてわたしたちを〈「わたしたち」=「ひとりのひと」と「ひとりのひと」〉にするのだ。

……

 スピヴァクは「想像力」を重視する。竹村はそれについて「文学研究者として」「全面的に賛同」しながらも、「想像力にはある種、経験的湾曲がある」(p210)のではないかと警鐘を鳴らす。僕も、まだスピヴァクの言う「想像力」の意味をつかめていない。最後に、その「想像力」についてスピヴァクが語っている部分をいくつか引用してこの文章を終えよう。

「想像力とは、片方の手でもう一方の手を引っ張ることによって生み出す抵抗のようなものだと考えましょう。自分が思っていることとは別のことをテクストに語ってもらおうと期待するのです──このことに注意を払えば、自己利益に逆らうような抵抗を実践することができるでしょう」(p224)

「公的領域を求める民主主義的な行動習慣や思考を極度に貧しい人のなかで育成するには、まだ見ぬものについて考えることが必要だと思っています──わたしにとって、これが想像力の定義の最低ラインです」(p225)

「英語では想像力という言葉は文学的なものだけに関与していますが、わたしにとって想像力は、単なる言葉ではありません。また教室だけに関係している言葉でもありません。人間ということは他の人のために善きこととして生まれ出ることだというのを思い起こさせてくれるのが、この言葉です──人は話す存在ですから。想像力について思考するとき、わたしが本当に頭に置いているのはこのことです。それが経験的なものと対立しているとは、思っていません。経験的なものが自分の生の条件以上のものだと理解したとき、それは変容していくのです。経験的なものを「経験的なもの」として感じ取るには、少なくともわずかばかりの想像力が必要なのです」(p225)