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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

岩野卓司『贈与論』メモ

 以下の文章は、青土社から2019年に出版された岩野卓司の『贈与論』を読みながら僕が書いたメモである。
 この本は僕の友人であるA氏が僕におすすめしてくれたもので、僕はA氏からこの本を借りて読んだ。それもあって、このメモを書くにあたって、このメモの読者として一番に想定されているのはA氏だ。ここに載せているのは、序章、1章~11章、終章、補章のうち、序章から9章までのメモである。10章、11章については内容をまとめた文章を作成したのだが、このブログの趣旨には沿わないと判断し、削除した。終章と補章については「●最後に」で少しだけ述べてあるとおりである。
 メモというものの性質上、本の記述にきちんと基づいて書かれたものもあれば、僕の思考の勝手な広がりや飛躍に任せて書かれたものもあり、それらは混在してもいる。また、断片的な文章の羅列もあれば、まとまった文章になっているものもある。さらに、僕やA氏(そしてあとで登場するB氏)しか知らないエピソードが突然出てきたりもする。そういうわけなので、本に書いてあることを正確に知りたい方は本を直接手に取っていただければと思う(ちなみに、このメモの中で、ひとつの文章として比較的まとまっていて、且つ、一部の人しか知らないエピソードは出てこず、また知的な面白さも少しは備えているもの、として挙げることができるのは「●脱構築」とタイトルをつけた部分であると思われる)。




岩野卓司 『贈与論』 メモ

●人間関係
「彼〔=アラン・カイエ:谷〕によれば、「親族関係、婚姻関係、隣人関係、仲間関係、友愛、愛情」といった一番本質的な社会関係は、市場経済の利害関係を超えて、〈与える・受ける・返す〉の贈与の儀礼によって成立している」15
 「市場経済の利害関係」を超えて、「贈与の儀礼」。経済的利益を目的にするか、贈与の儀礼それ自体を目的とするか。
 この本を読むと、贈与交換にしても、お返しのない単なる贈与にしても、「利益」は求められていないように思う。「利益」と限定しなくてもいいかもしれない。贈与(交換)の「外」に目的が設定されていないのだ。贈与(交換)それ自体が粛々と行われている、そこで自足している、完結している。
「利益にとらわれない互酬性によって人間らしい本来の生活を取り戻してくれる」16(セルジュ・タトゥーシュの考えの説明の一部)
 「人間らしい本来の生活」は「互酬性によって」取り戻されるとタトゥーシュは述べている。

・力
「〔マオリ族の人々の間では、:谷〕品物には物の霊であるハウ(hau)が宿っており、このハウが贈与とお返しを引き起こすと考えられている」25
「私があげた贈り物のハウによってこの人はそうするように〔=私に別のものを返すように:谷〕駆り立てられる」25(モース『贈与論』からの引用)
「品物の霊は他の人に贈与されても元の所収者のところに戻りたがる傾向がある」26
 贈与された物が、贈り主のもとに帰ろうとする。だからお返しをしなければならない。
 そういう「語り」がある。
 そういう力があり、そこから語りが生まれたのか。それとも、語ることによってそういう力が生まれたのか。
 僕の立場からすれば後者を支持したくなるが。
 それは置いておいて、たしかに、何らかの「力」はありそうな「感じ」はする。だって、何かを貰ったら、お返しをしなきゃという気になるのだから。
 この強制力。「駆り立てられる」こと。そのような力はなぜ「必要」なのか。つまり、なぜそのような語りが生まれたのか。(語り→力、という順序だとするなら、この問いは出てくる)
「ワインを贈与しあうことで、人間関係がつくりあげられていく」46
「贈与は部族間の関係、さらには人間関係を円滑にするための手段なのである」250
 この本では、贈与は「人間関係」のためのものと捉えられている箇所が多い。
 中沢新一の文章も引用されている。
「「火あぶりにされたサンタクロース」の訳者である中沢新一は、レヴィ=ストロースの論文をもとに「クリスマスの贈与」という論文を書いている。そこで中沢はレヴィ=ストロースの考えを発展させて、贈与による宇宙的なエネルギーの循環について述べている。「人類のいだいてきた贈与の精神にとっては、贈り物として贈られる「モノ」が、重要ではなかったのである。贈り物の内部には、「モノ」としての個体性をこえて活動する、高次元の力が宿っている。その力が生命のように動き、活動しているが、生物の生命とはちがって、個体の中に閉じ込められてはいない。古代ギリシア人が、個体的生命である「ビオス」に対比して、個体性をもった生命システムの生死をこえて流れ続ける「ゾーエー」という高次元の力を思考したように、人間は贈与のけだかい行為をとおして、「モノ」の移動とともに発動し、世界に流動をつくりだしていく「贈与の霊」という概念をつくりだした。そして、この宇宙的な力の発動が感じ取られるとき、贈り物をかわしあった二人の間には、個体性をこえたつながり、つまりエロスによる結びつきの感覚が発生することになったのである。クリスマスは、そのような贈与の祭りなのである」」302 第4章 注(13)
 「贈り物をかわしあった二人の間には、個体性をこえたつながり、つまりエロスによる結びつきの感覚が発生することになった」。人間の「結びつきの感覚」が贈与交換の中で生じる。

・信用
「贈与に対しては必ず返礼があるということから、信用という観念が生じる」24
「僕らはお返しがあるものと確信しながら贈与するのだ。ポリネシアマオリ族なら、「お返し」をしない不届き者にはハウが死の罰を与えるから、「お返し」は義務として強制されるのだ。ポトラッチの場合も、お返しをしないと他の部族の者たちから嘲笑され面目を失うことになるので、ここでもお返しは義務として生じる。だから、僕らは贈与において相手を「信用」していると言える。ここでは、物の霊とか面子とか単なる経済的な計算を超えたところにあるものが贈与交換を支えている」28
 相手を信用するためにハウやポトラッチの「語り=システム」ができた、と考えてみることもできる。
 信用とは、「人間関係を円滑にするための手段」ではないか。

・承認欲求
「さらに多くの富を相手に与えて、相手に対して優越感をもとうとする。そこには、自分が気前がよく偉い存在であることを相手や周囲に認めさせる、承認欲求があるだろう。ポトラッチはこういった名誉欲に支えられているのだ」28
 「自分が気前がよく偉い存在であることを相手や周囲に認めさせる、承認欲求」がまず最初にある、とはさしあたり考えないでおこう。
 相手より多くの富を与えることで承認欲求を満たせる、満たしたいと思わせる「語り=システム」があるから、そのような承認欲求が生まれると考えてみる。このようなシステムがやはり「人間関係を円滑に」する。
「ポトラッチは、敵対と競合からくる闘いにほかならない。[略]部族のあいだで敵対しあうと戦争に至るのがふつうであるが、ポトラッチはその代わりなのである。多くの人が犠牲になる戦争ではなく、富を消費することで決着をつける「戦争」によって、地位や権力をめぐる争いは解決する。ここに未開人たちの深い叡知を読み取ることができるだろう」29

・「語り=システム」の先行
 「語り=システム」の先行については、こんな記述もある。
レヴィ=ストロースはこう説明している。

  インセストの禁止は、〔…〕、単に禁止である
 ばかりではない。それは何かをすることを禁じる
 と同時に、何かをするように命令するのだ。イン
 セストの禁止は、〔…〕、ひとつの互酬規則なの
 である。

 僕らはふつうインセストの禁止というと、近親相姦を犯してはいけないという禁止の面ばかりに意識がいくが、レヴィ=ストロースはこの禁止が同時に女性を贈与しろという命令であることにも注目している。しかも、この贈与は贈与交換なのである。「私が自分の娘や姉妹に手をつけるのを断念するのは、隣人が同じように断念するからに過ぎないのだ」」50-51
 「隣人が同じように断念するから」→「私が[略]断念する」
 ここには「語り=システム」(他者・外部)の先行が示されている。

・平和
「贈与交換が行われるためには平和でなければならない。[略]未開人たちの贈与の知恵は平和の維持と結びついているのだ」34-35
「贈与が僕らに交流をもたらしてくれるのだ」66

バタイユの場合
 バタイユの語る贈与には、人間関係を円滑にするという目的の存在感は薄い。バタイユの贈与は、贈与のための贈与、「消費のための消費」(p81他)、浪費のための浪費である。目的がない(とされる)。

・マリオンの愛
 岩野はマリオンの次の文章を引用している。
「互酬性は交換の可能性の条件を定めるが、また愛の不可能性の条件を立証する」235
 互酬性は愛の不可能性の条件を立証するらしい。分かる気がする。ただ、お返しがあることを分かっていつつ与えることと、お返しを求めて与えることは、区別すべきではないか、と思う。
 モースやレヴィ=ストロースが描く未開人の贈与の例では、贈与に対してお返しをしなかった(できなかった)者は何らかのかたちで制裁を加えられるが、その制裁は、慣習を冒したことに対する制裁であり、個人的あるいは社会的な「損」に対する制裁ではないように思える。言い換えれば、「何かを贈られたらお返しをせよ」という非難はされるが、「お返しをしないとあなたばかり得をして贈った人は損をするでしょう」という非難はされないように思える。


●交換と贈与交換
 交換においては、「正当」と「不正」がある。「不正」の分かりやすい例は、商品を買うのにお金を払わない場合だ。
 贈与交換の場合、贈与された側がお返しをしないことは、非難はされても、「不正」とは言われないのではなかろうか。ムカつかれ、場合によっては暴力を振る舞われはしても、「不正」ではないのではないか(したがって、ムカつく側、暴力を振るう側も「正当」ではない)。……とは言え、贈与されたらお返しをすること、お返しをしないものを非難することは、「当然」のこととなってはいるから、結局「正当」「不正」とあまり変わらないのだろうか。
 とは言え、お返しがないことを許容するかどうかの差異があると思う。交換においては、まったく許容されない。お金を払わず商品をもらうことは、社会通念上、許容されない。贈与交換においては許容される。「お返しされないこともある」というのは社会通念に含まれている(もちろんそこでは非難もセットになっている)。
 交換では、もし感覚的に「お返しはなくてもいいや」とは思っても、お返しがないことが「不正」であることには変わりない。交換のシステムに「お返し無し」は含まれていない(ことになっている)。
 贈与交換では、感覚的に「お返しはなくてもいいや」と思えれば、そこでお返しがないことは贈与交換のシステムに組み込まれることができると思う。
 「組み込まれる」と僕が書いたことは面白い。組み込まれ「ている」ではなく、組み込まれ「る」。あらかじめ組み込まれているのではなく、その場その場で組み込まれる、という感覚を僕は贈与交換のシステムにおける「お返し無し」に対して抱いているようだ。やはり、贈与交換においても、「お返し無し」は「例外」ではあるのだと思う。しかし、その場その場で、「なくてもいいや」と思ったその時に、その時にだけ、システムに組み込まれる。

―――

 現代の交換、お金を払って商品を買う、という交換は、貰う側、お金を持っている側が交換をするかどうか決める。貰う側が「欲しい」と思わなければ交換は生じない。
 贈与(交換)においては、まず一方的な贈与がある。貰う側が欲しいか欲しくないかにかかわらず、である。そしてお返しが要求される。欲しくもない商品を勝手に渡してお金を要求するようなものだ。


●破滅の可能性
 贈与(交換)においては破滅の可能性がある。
「自分の身の程以上の財産を相手に贈与したり破壊したりして、破滅してしまう場合もあるのではないだろうか。というのも、「ある種のポトラッチでは、自分のもっているもの全てを消費しなければならず、何も残しておいてはならない」からである」39
 なぜ、「人間関係を円滑にするための」システムが推奨する行為をした結果として自分が破滅することを、このシステムは内在化する必要があったのか(この引用で破滅するとされるのは人間「関係」ではなく、その「関係」の項としての「個人」や「部族」であるが)。
「より多くの経済的損失を出したほうが、栄誉や地位を手にするのだ。[略]『贈与論』を読み直しながら、彼〔=バタイユ:谷〕はポトラッチの理想が返礼なき贈与であることを強調する。

  「理想的なのは、ポトラッチを与えてお返しを
 受け取らないことだろう」とモースは指摘してい
 る。この理想は、慣習に可能な対応物を見いだせ
 ない特定の破壊により実現される。

 人は相手が絶対に返せない規模の贈り物をしたりすることもあれば、他人が真似できないぐらい自分の所有物を破壊することもある。こういった場合、贈与は交換ではなく一方的なものとなる。僕らの欲望のなかには、交換のシステムに抵抗しそれを崩壊させようとするものが潜んでいるのである」80-81
 ポトラッチのシステムにはポトラッチを終わらせる可能性も含まれている。


●ウンコのように与える
「贈与も社会のウンコにほかならない。そして、「消費の観念」のなかでは、贈与はすぐれてスカトロジックなものとして登場する。というのも、排泄行為は、お腹のなかに蓄えられた貴重な財産をウンコという無価値なものに変えることであり、一方、贈与も自分の財産を人に与えることで、自分にとって価値のないものに変えてしまうことだからである」81
 「お腹のなかのものを肛門で破壊しウンコにして捨て去るように、僕らは財産を贈与することで破壊しウンコにするのである。この破壊はポトラッチにおいて自分の財産を贈与することと自分の財産を破壊することが等価であることからもわかるだろう」82
 「貴重な財産をウンコという無価値なものに変えること」。
 「財産を贈与することで破壊しウンコにする」。
 バタイユにとって、贈与は無価値であることが重要である。無価値なものに返礼はいらない。贈与は「それ自身に目的をもつ行為」78である。
 しかし、「《贈与》したほうが返礼を求めようが、求めまいが、《贈与》されたほうには《借り》が生じる」(サルトゥー=ラジュ、二〇頁)」283という言説もある。贈与する側と贈与される側では非対称性があるのだ。
 ここに、ある種の「ずるさ」のようなものを感じることもある。例えば、相手からすると自分がやりたいからやっているだけの行為が、こちらからすると贈与的に思えてしまうことがある。その場合、「返礼しなければ」という力が生じる。そういう時、「勝手に贈与してくれるんじゃねえよ、返礼の手間が増えるじゃねえか」と思ったりする。贈与する側は贈与してはいるが贈与したいからしているのであるから総合的には得、つまりプラスである。贈与された側は、贈与された上で返礼しているわけだから得と損が相殺しあっているので損はない。つまりゼロである。贈与した側はプラス、贈与された側はゼロ。ここに不公平感(「ずるい」)を感じることがある気がする。
 しかし、逆の立場であれば、例えばそこで「贈与するな」と文句を言われても、「なんで返礼の義務を勝手に感じちゃってるの?」「返礼の義務を感じることについて何らかの取り組むべき課題があるとすれば、それはこちらの課題ではなくてあなたの課題だ」と言いたくなる。

(しかし、バタイユの語る贈与を「やりたいこと」と規定してしまうことはあまり適切でないように思う。「無価値」「浪費」と形容されているからだ。ウンコはそれを排泄する自分にとっても無価値なものである。自分でもなぜそれをするのか分からないようなこと、むしろやりたくないとまで思ってもやってしまうこと……それがバタイユにとっての贈与なのか。)

 贈与において生じる返礼の義務感は、贈られた「物」の価値にではなく、贈与「された」という「行為」「出来事」によるのではないか。だから、それがウンコ(=無価値なもの)であっても返礼の義務感が生じるのではないか。
 この点からも贈与における「ずるさ」の感覚を説明できるように思う。贈与する側は無価値なものを贈与する、そうしたら返す側も無価値なものを贈与し返してよいはずだ。しかし、返す側は価値のあるものを返そうと思ってしまう場合がある。「お返し」をしようと思うと、無価値なものを返すのは憚られる。無価値なものを贈与できるのは、ある意味では贈与「する気のない」場合だけだ。バタイユの想定する贈与は贈与「する気のない」贈与なのではないか。この非対称性のゆえに、「相手は無価値なものを置き捨てただけなのに、なぜ私は価値のあるものを相手に渡さなければならないのか」、そう思ってしまうことになる。「太平洋のメラネシアでは、贈り手はすばらしい贈り物を相手の足許にウンコのように置き捨てるそうである」82(この例では、ウンコ「のように」置き捨てるだけで、贈り物自体は「すばらしい」のだけど)。

中島義道セネカ
「恩恵を受ける者がなすべきことは、[略]恩恵を忘れないことに加えて、恩恵を「喜んで受ける」ことである。「なぜなら、喜んで恩を受けた者は、すでにそれを返しているから」(Seneca 519)である。この言葉だけでも、セネカは永遠に読み継がれてゆく価値をもっている」(中島義道 『カントの人間学講談社現代新書p72)
 しかし、この部分は、「恩恵(beneficium)を与える際にとりわけ敏感でなければならない」(71)けれど、「一方、恩恵を受ける者がなすべきことは、比較的あっさりしている」72という文脈、つまり、与える側は「敏感でなければなら」ず、受ける側は「あっさり」でいい、という文脈でのものだから、与える側は「ウンコのように」与える、というバタイユの文脈とは別に考えなければならないかもしれない。
「…恩恵は相手を軽蔑して与えてはならぬ。すなわち、心の自然の仕組みとして、侮辱は親切よりも深く心底に沈み、しかも後者は急速に消え失せるのに、前者は長いあいだしつこく記憶に残されるものである。(Seneca 469)」(中島71)
ファビウス・ベルルコススはよく言っていた。「粗野な人間によって無作法に与えられた恩恵は、石のように堅いパンのごときものであって、飢えた者がどうしてもそれを食わねばならなくても、しぶしぶ食うようなものである」と。(Seneca 495)」(中島72)
 中島が引用するセネカは、「ウンコのように」与えることを肯定しないように見える。


●神さえも否定して
バタイユキリスト教の教義や神への信仰に留まる彼らより根本的に神秘的経験を問おうとしている。それは彼が神という知も否定して「非-知」や「無」にまで至ろうとしていることからもうかがえる」95
「マリオンがいくつもの著作で引用し、論文まで書き、翻訳までしているキリスト教神学者ディオニュシオス・ホ・アレオパギテースがいる。[略]ディオニュシオスの考えでは、神を称えるために、あらゆる知やあらゆる事物を捨てなければならない。僕らは財産を所有している。それと同じように、知識、概念、言葉もまた所有している。財産から言葉にいたるまでのこういった所有物をいっさい捨てることが求められるのだ。すべてを捨て去ったときに、はじめて僕らの魂は神と一体になれるのである」241
エックハルトは、あらゆるものを捨て去る「放下」という考えを展開している。「放下」においては、自分が「存在すること」にも、「愛すること」にも執着してはいけない。さらには、神に固執することも許されず、神をも放下しなければならないのだ」242


バタイユの「自己意識」
バタイユは[略]こう述べている。

  乾いた明晰さが聖なるものの感情と一致するよ
 うなひとつの点を明るみにださなければならな
 い。

 [略]「賭け」の場合を例にとってみよう。[略]賭けに勝つための計算や予測は必ずそこに存在する。しかし、どんなに計算を徹底しても、計算を超えた何かが賭けには介在し、この何かと関係をもたざるをえない。[略]
 [略]アステカの人たちは、太陽神を崇拝する自らの価値観のもとで、奴隷の殺戮を合理的に計算する。しかし、そこには神への狂信的な崇拝と殺戮への破壊的な衝動も見え隠れする。ポトラッチでも、地位と名誉の獲得という目的のために、合理的に計算された贈与を行っているのだが、同時に浪費への非合理な欲望、富を破壊することへの快楽も見いだされるだろう。このような富の贈与には、合理的なものと非合理的なもの、理性と狂気が一致する「点」が存在するのだ」96-97
「こういった「点」にある人間の状態、つまり贈与する者の意識状態を、バタイユは伝統的な哲学のタームを借用して「自己意識」と呼んでいる」98
バタイユの場合はこういった哲学の伝統的な意味〔自己意識=自己を対象とした意識:谷〕からさらに一歩進んで、自己意識は対象として何ももたない意識をさしている。[略]「消費のための消費」の状態にある意識は、対象を獲得しない意識である。脱我状態にあるとき、僕らの意識はふつうの状態とは違い明確な対象をもたない。賭けにおいては、僕らが緻密に計算する限り意識に計算の対象は存在する。しかし、計算を超えたものが介在する限り、最後の最後は対象化できないものと賭博者は関係をもってしまう。アステカの供儀やポトラッチにおいても、富の破壊の快楽のなかで、対象より対象の破壊に意識は向かう。そこにあるのは、獲得や獲得した対象についての意識ではなく、消費や破壊に興じている意識であり、明確な対象をもたない意識なのだ。[略]バタイユはこう述べている。

  〔…〕成長(何かあるものの獲得)が消費に解
 消される瞬間の決定的な意味を意識することは、
 まさに自己意識、つまり対象として何ももたない
 意識である」98-99
 「対象として何も持たない」意識。
 このあたりの文章を最初に読んだ時、「本当に対象を持たないのか?」という疑問がわいた。というのは、「対象より対象の破壊に意識は向かう」時、対象を破壊するためには対象への意識が必要なのではないかと感じたからだ。ある特定のものを破壊するために、それを破壊の対象として意識する必要がある。そうでなければ「きちんと」そのものを破壊できないだろう。
 しかし、バタイユの頭にあるのはおそらく、「何かを」破壊することではなく、破壊行為そのものである。イメージとしては例えば、バットを特定の「ものを目がけて」振り下ろして破壊することではなくて、ただバットをめちゃくちゃに振り回すことで「あらゆる」ものを破壊することである。そう思ってとりあえず納得した。
 しかし、「だとしたらバタイユは破壊に対して不徹底である」と思った。やはり、「きちんと」破壊するなら、破壊する対象を意識すべきだと思ったからである。そうでなければ、破壊が不十分になって終わることがあるし、場合によっては上手くその対象を(システムを、とか、差別構造を、とか言ってもいい)温存するのに寄与する結果にもなる可能性がある。
 そう思ったが、いや、と思い直した。バタイユはそもそも、そのような「きちんと」破壊しようという意識を忌避しているのではないか。「きちんと」という意識・価値観をこそバタイユは破壊しようとしているのではないか。バタイユは、「めちゃくちゃでいいんだ」と言っているのではないか。「そんなに(クソ)真面目になるな」と言っているのではないか。だとしたらそれは僕にとっては重い言葉である。
 「〔『宗教の理論』で:谷〕バタイユは、自己意識の「自己」が動物性であることを明らかにしている。彼は、「人間性」と「動物性」の二元論を提示している。人間は道具を作り労働し自然を支配する以前に、動物の状態にあった。この動物性は人間性の誕生とともに、抑圧されてしまった。とはいえ、完全に失われてしまったのではなく、人間のなかで他なるものとして存在し続けている。[略]。彼の主張する自己意識とはこの「動物性」についての意識なのである。と同時に、「動物性」によって見張られている意識でもある。これが自己意識のありかただ。[略]この意識は対象化できない「動物性」と関わりをもっているとはいえ、決して動物状態に戻ることではない。先ほど、「乾いた明晰さ」と「聖なる感情」が一致する「点」が問題になったように、ここでは動物的なものについての明晰な意識、動物的なものと明晰な意識の混在が重要なのである」98-99
 「動物性」とは「めちゃくちゃ」ということではないか。


バタイユはカントと近い?
「それ自身に目的をもつ行為」78(バタイユからの引用)
「乾いた明晰さが聖なるものの感情と一致するようなひとつの点を明るみにださなければならない」96(バタイユからの引用)


脱構築
バタイユによれば、プロレタリアートブルジョアジーが対立する近代の「階級闘争」は、無駄な消費を嫌い私有財産を守ろうとするブルジョアジーの価値観によって、その本来の姿がゆがめられているのだ」112
 ここ、「無駄な消費を嫌い私有財産を守ろうとする」まで読んだところでは、それがプロレタリアート側、共産主義側の価値観のことを言っている気がしていたから、「ブルジョアジーの価値観」という語が続いてびっくりした。これは僕の勝手な間違ったイメージによると判断してスルーしていいのかもしれないが、ちょっと気になる。僕のイメージの中では、ソ連に代表される「現実化」した共産主義は、「私有財産」を守ろうとするものなのだ。これは共産主義(の言説)と端的に矛盾するイメージだが、あとから登場する「「私有財産」であれ「共有財産」であれ、「財産」や「所有」のレヴェルにとどまっている」268という文章が指摘しているように、「財産を守る」ことを重視する点において資本主義も共産主義も同じである。さらに考えを進めて、「財産を守る(所有する)」ことは「私有」においてしかありない、と言うことができると思う。一般的な意味で「私有」と言われようと「共有」と言われようと、ある特定の「誰か・何か」(=個人、コミュニティ、国家、世界全体……)が所有すると想定されるなら、つまり所有の「主体」が想定されるなら、それは「私」有である。「誰か・何か」は境界線を持つ、したがって、境界線の外としての「他」を持つ。「他」との対比において、それは必然的に「私」である。この限りで、ソ連などの「現実化」した共産主義は、資本主義と同じである。そこで想定されていた「階級闘争」は結局、「誰が・何が」財産を所有するのかという闘争である。
 しかし、このような僕のイメージは、「ブルジョアジーの価値観によって、その本来の姿がゆがめられ」た結果なのであろうと、上の引用(112)を読んで思った。このことについての僕の認識は、デリダによる脱構築をこの本が説明する時により鮮明になる。

 デリダは「純粋に現れることを中心にした価値観」138を批判する。
 「〔脱構築によって理解される:谷〕エクリチュールの新しい概念は、「現前」しないもの、つまり「現れない」ものである。パロールにしろ、エクリチュールにしろ、従来の概念は「現前」と結びついた概念である。パロールは現れることを特権的に保証していたが、エクリチュールもまたふつうは眼前に現れるものである。[略]だから転倒をずらしながら、デリダは新しいエクリチュールを現れないものとして考えるが、このエクリチュールは、それなくしてはパロールエクリチュールも二項対立も存立できないような、それらの根本にかかわるものであり、「現前」と結びついた既成の概念によっては捉えられないし、その枠に収まりきれないものなのである」140。そして、この新しいエクリチュールは、「「原エクリチュール」とも呼ばれている」140。
 脱構築は、「現前」するものとしての対立する二つの概念(ここではパロールの概念とエクリチュールの概念)の優劣を転倒し、それだけではなく「ずらし」ながら、もとあった劣位の概念(ここではエクリチュールの概念)とは異なる「現れない」ものとしての概念、もとあった二項対立の存立を可能にさせるような概念を示すことである。もとあったエクリチュールの概念は、「現前」するものとしてのパロールの概念の優位のゆえに歪められ、同じく「現前」するものとして現れてしまっていた。それを現前「しない」ものへと「ずらす」のだ。
 さて、デリダによれば、贈与は「現前しない」もの、「現れない」ものである。贈与は贈与として現れてはならない。
 岩野は次のデリダの言葉を引用している。
「最後のところでは、受け取る者は贈与を贈与として認めないようにしなければならない。もし彼が贈与を贈与として認め、贈与が彼に対し贈与として現れ、プレゼントがプレゼントとして彼に現前するならば、このように単純に認めただけでも贈与を破棄するのに充分なのだ」143
「なぜなのか。なぜならば、このように認めてしまうと物そのもののかわりに象徴的等価物を返しているからである。〔…〕象徴的なものは、交換と負債の秩序、循環の法や秩序を開きかつ構成するが、そこでは贈与は破棄されてしまうのだ」143
 岩野はこれを説明して、「贈与を贈与として認めることで象徴的に何かを心のなかで返している」144、そして「認知された贈与は、象徴的な次元でのお返しを伴う限り、実は交換なのである」144と述べる。
 デリダによれば、ふつう贈与と思われている行為は、実は交換である。交換であるはずのものが贈与と呼ばれることで、本当の贈与(=「現れない」贈与)が忘却されているのだ。
 これを言い換えれば、「現前する」ものとしての交換の概念が、「現前しない」ものとして贈与の概念を歪めているということである。「贈与を贈与として認め」るという事態が起こることが、贈与と思われていた行為が実は交換であることの根拠だった。何かを贈られた時、それを贈与と「認める=現前させる」ことで、その瞬間それは交換となるのだ。「もらった」あるいは「あげた」と思った瞬間、具体的な物のお返しがなくてもそれは交換となる。もののやりとりが何らかの仕方で「現前」すればそれは全て交換なのである。
 ここに見えるのは「贈与に対する交換の優位」148である。贈与は交換の一類型になってしまっている。
 それではどうするか。岩野は次のように述べる。
「一方的な贈与を贈与と考えるバタイユに倣って、贈与の交換に対する優位を主張し価値を逆転させても、贈与と交換の二項対立の図式それ自体は変わらず、根本解決には至らない。この意味でデリダの問いかけは大変貴重である。それならば、贈与と交換についてどう考えていけばいいだろうか。まずはモースやバタイユに倣いながら贈与と交換の価値の転倒を行わなければならない。しかし、ここで終わってはただ価値を逆転させただけである。さらに一歩進んで、現れない贈与をこの転倒のなかに「書きこむ」ことで、転倒されたこの図式を変質させて交換中心の価値体系や二項対立をうまく機能させないようにしなければならないのだ」149
 岩野によれば、デリダはそこで、「時間を与える」ものとしての贈与をモースの『贈与論』から読み取っている。
「『贈与論』のなかで、モースは贈与交換を引き起こす「力」は何かという問いをたてているが、デリダはそれにひとつの答えを与えている。

  贈与は贈与ではない。贈与は、時間を与える
 〔時間をかける〕限りでしか、与えない。贈与と
 純粋で単純な他の交換の操作全体との差は、贈与
 が時間を与える〔時間をかける〕ということにあ
 る。贈与がある〔il y a〕ところに、時間がある
 〔il y a〕のだ。

 デリダはひそかにモースの贈与にもうひとつの贈与を読み込んでいる。モースは贈与を互酬的なものとして語っているから、デリダ流の厳密な定義に従えば、この贈与は交換である。しかし、贈与をそのようにとらえながらも、モースのテクストには忘却された贈与も同時に記されている。人が贈与を行うとき、「これは贈与だ」と少しでも思えば、贈与の本来の姿を忘却してしまうことになるが、これは贈与がなくなってしまったのではなく、忘却された状態にある贈与が現れないだけである。そして、この「現れない贈与」が時間を与える、つまり、遅延ないしは差延を引き起こすというわけである」152-153
 このようにしてデリダは、「現れない」「現前しない」贈与を、従来の交換-贈与の二項対立からずらして案出する。

 これと類比的に、ブルジョアジープロレタリアートの対立、言い換えれば資本主義と共産主義の対立も、考えることができる。
 「所有」と「現前」には必然的な結びつきがある。所有物を所有物と「認める=現前させる」ことがなければ、それを「所有している」とは言わないからである。その限りで、従来の資本主義と共産主義はどちらも「所有」-「現前」に囚われた概念、すなわち「純粋に現れることを中心にした価値観」に囚われた概念である。これを前出の言葉で言い換えれば、「無駄な消費を嫌い私有財産を守ろうとするブルジョアジーの価値観」に囚われた概念である。脱構築をするなら、ここから「ずらし」を行い、「現前しない」「現れない」共産主義を案出するだろう。それがどのように行われるかを考えるのは次の機会に譲る(たぶんブランショとかナンシーとかがやってるんだろうけど)。

 さて、岩野によれば、デリダは『死を与える』でアブラハムによるイサク奉献の逸話を取り上げて次のように論じている。
 キルケゴールは、神の命令を息子イサクの命よりも優先(=宗教的態度を倫理的態度よりも優先)したアブラハムについて「正しい、と結論を下す」175。それに対してデリダは、「宗教的態度と倫理的態度のあいだで優劣をつけるのではなく、両者のジレンマにこだわりをみせる」175。ある他者を優先すれば、別の他者を裏切ることになる。「他者という次元で考えるならば、すべての他者を満足させることはできない」176。「デリダは[略]、他者である点では息子も神もかわらないという原点に立ち返っている」176のだ。そして岩野は、「重要なのは、どちらの他者を優先するかについて正当な理由などないということ」178だと述べる。私たちは常に、正当な理由なしにある特定の他者を優先し、別の他者を犠牲にしているのである。
 ……僕はこういう考えは好きではない。
 『死を与える」を実際に読んでみないと分からないところもあるが、岩野の記述を読む限り、デリダはこの問題に対して脱構築を試みていないように見える。
 まず、宗教(神の優先)と倫理((身近な)人間の優先)との二項対立がある。脱構築をするなら、まずこの対立の優劣を転倒させ、そしてその意味をずらし、この二項の成立を可能にするような概念を案出するだろう。
 ところで、宗教と倫理のうち、劣位な概念はどちらか。宗教である。宗教は「現前しない」「現れない」ことを中心とする価値観によって形成される概念であるからだ。岩野は次のように述べている。
「僕らはいったい神についてどれだけ知り、どれだけ理解できているのか。神の命令なるものが人間に完全に理解できる代物であるならば、そんなものは神の命令ではない。神が命令する理由は、僕らがどう考えてみても最終的にはわからないし、その理由を問い質そうとしても、神は沈黙している。だから、神は隠れているとか、秘密であると言われる。理解できないで秘密であることが、神の神たるゆえんであると言えよう。神はアブラハムに愛する息子の死を命じるが、アブラハムはその理由を理解できない。死の贈与の命令は、「オノノカセル秘儀」にほかならない」165
 そして岩野はデリダの次の文章を引用する。
「オノノカセル秘儀のなかで何が私たちをおののかせるのだろうか。それは〔神による〕無限の愛の贈与である。つまり、私を見る神の眼差しと、私を見つめるまさにそのものが見えない私自身とが対称関係にないことである」166
 神は私には「見えない」、つまり、「現れない」。
 これに対して倫理は「現前する」「現れる」ことを中心とする価値観によって形成される概念だと言えよう。人間は、神とは違って「見える」からである。
 脱構築するなら、まず宗教を優位概念、倫理を劣位概念へと転倒させるが、岩野の記述を読む限りデリダはそうしていない。岩野によれば、デリダは「他者である点では息子も神もかわらないという原点に立ち返っている」。つまり、息子と神の優劣を転倒させるのではなく、それらを同列に置くのである。
 この同列に置く仕方が、僕には、神と息子をどちらも「倫理」的な視線によって同列に置いている、というように思える。つまり、どちらもを「現前する」ものとして同列に置いているように、である。
 なぜそう思えるのか。
 岩野は、「神は隠れているとか、秘密であると言われる」理由を、「神が命令する理由は、僕らがどう考えてみても最終的にはわからないし、その理由を問い質そうとしても、神は沈黙している」からだと述べている。ここでは、神が何を命令しているのかは分かっている、という前提があるように思える。「何を」命令しているのかは分かっているが、それを「なぜ」命令しているのかは分からない、というふうに岩野は解釈している。「神がイサクを捧げることを命令している」ことは分かっているが、「なぜイサクを捧げることを神が命令するのか」は分かっていない、と。
 さて、神が「何を」命令しているのかが、私たちには分かるのだろうか? 僕は分からないと思う。神はその部分においても「現れない」と考える方が、「現れない神」という概念に忠実ではないだろうか?
 岩野の描くキルケゴールデリダは、神が「何を」命令しているかは「現前する」と考えている。だから人間と神を同列に置くことができ、そこにジレンマを見ることができるのだ。「イサクを捧げよ」という宗教的命令と「イサクを守れ」という倫理的命令はどちらも「現前する」ものとして考えられている。「現前する」命令どうしだから、対立することができるのである。
 これは、「倫理」における「現前する」ことを中心とする価値観が「宗教」という概念を歪めている例ではないだろうか。このような歪みを是正するためにこそ、脱構築はあったのではないか。脱構築を試みるデリダなら、「倫理」によって歪められている「宗教」概念を、「現れない」ことの方へとずらし、「倫理」と「宗教」の対立という(「倫理」的な)事態をそもそも可能にしている概念として案出するのではないだろうか(それがどのような概念になるのかを考えることは次の機会へ)。


ヴェイユの「自殺」
 岩野はマルロー『人間の条件』に登場する自己犠牲的な人物を称揚するヴェイユについて、次のように述べる。「彼女はバタイユとマルローの革命観を死に価値を与えるものであり、自らの革命観を生の称揚であると考えるが、実際には彼女のなかでも生は死とからみあっているように思われる。彼女が自己規定の際に、死というタームを使わないのは、逆に死を抑圧しているからではないだろうか。[略]自己犠牲というかたちの自己贈与は、彼女のなかで「偽装された自殺」なのである。これがバタイユが直観した彼女の「不吉な面」にほかならない」115-116
 ヴェイユが死(「偽装された自殺」への欲望)を抑圧していること、これはありうることだと思う。ただ、僕は二点、気になっている。
ヴェイユは「なぜ」死にたかったのか、そして「不吉」の意味について
 ヴェイユが死に(「生への愛」113としてではないかたちで)向かいたいという欲望を持っていたとして、だとしたらそれはどのようなメカニズムからなのか。つまり、なぜ彼女は死にたかったのか、「生への愛」とは「別の理由で」彼女が「死にたかった」としたら、その理由は何なのか。(彼女が「生への愛として」死に向かっていたことについて、バタイユが「不吉」と表現することは考えにくい気がする。本当は死にたいという欲望があるのにそれを抑圧・隠蔽したゆえにそれが行動に滲み出てくるという様に対して「不吉」と言ってるのだろうと僕は推測している(この点についての岩野の認識は微妙である。「死を抑圧している」115という(自らの行為の理由に生への愛とは別の理由があるけれどそれは抑圧している、という意味に取れる)指摘もあれば、「ヴェイユの自己犠牲は殉教というものから程遠い」121という(生への愛とは別の理由(ここでは「教団や教会のある種世俗的な価値観」121)を持つこととは程遠い、という意味に取れる)指摘もある。ただ、もしかすると、岩野にとって以上に示した違いはそれほど重要ではないのかもしれない。岩野にとっては、生への愛の行為と死への行為が併存していればそれはすなわち「不吉」なのであって、その併存の仕方の違いにはあまり目が向けられていないのかもしれない。この本全体の内容から考えると、贈与には「本質的に」危険が含まれているという考えが展開されているので、それと類比的に、生への愛は「本質的に」「不吉な面」を含んでいると岩野は考えている、と考えることはできそうだ。つまり、ヴェイユが死に向かうのは生への愛と別の理由ではない、という考えである。だとしたら、バタイユの言った「不吉」の意味についての見解は僕と岩野とでは異なっていることになる)。
②生への愛と死への欲望の割合について
 ヴェイユが、生への愛とは別のものとしての、死に向かいたいという欲望を持っていたとして、それでは生への愛は「どのくらい」あったのか。まったくなかったのか、あったけれど死に向かいたいという欲望よりも少なかったのか、それとも多かったのか。彼女が実際に死んだ時には、その割合はどうだったのか。
 このように僕が問いたくなるのは、ある行動における理由として、生への愛の方が多いのなら、結果的に死への欲望もその行動によって満たされたとしても、(生への愛の称揚という観点からして)特に問題はないように思うからだ。例えば、この前のA氏とB氏との電話で、B氏から僕に対して、「私(=B氏)のことを下に見て、上の立場の者として私を助けようとしている」という批判があった。それを僕はその場で認めた。あとから思ったことだが、ここで僕が素直にそれを認め、かつ、僕が自分の行動をそこで改めようとしなかった(普通、自分の非を認めたらその非であるところの行動を改めようとするだろう)のは、「それだけの理由でB氏に話しているのではない、それよりももっと大きな別の理由が僕の中にある」という絶対的な自信があったからなのではないだろうか(「別の理由」とはまさに「生への愛」だと思われる)。自惚れかもしれないが、僕は自分自身について、先の批判内容、言い換えれば「自分の他者に対する優越性の確認」の欲望のため「だけ」に、あるいはその理由を「最も大きな」理由として、あの電話の時のような行動を僕が取ることはない、と思う。その自信が(無意識的にだが)あったから、「優越性の確認」という欲望が自分にあることは分かっており、また、「優越性の確認」の欲望が自分のその時の行動によって満たされる可能性があると分かっていても、その行動を僕は変わらず続けたのではないか。ヴェイユにそのような場合をあてはめることができるなら、ヴェイユがもし「死にたかった」として、その欲望を満たす方向でヴェイユが行動していたとしても、生への愛がその欲望よりも大きいならば、ヴェイユの偉大さは全く変わらないと僕は思う。
 しかし、バタイユにとっては、このような「きちんとした」峻別(「健康/病気、清潔/不潔の二元論」113)は不要なものであろう。バタイユなら、ヴェイユが死への欲望という「病気」を原動力にして行為しそして死んだとしても、究極的なところではそれを肯定するのではないだろうか。僕はバタイユよりもヴェイユに近さを感じるとともに、バタイユ的な「めちゃくちゃ=なんでもあり」を受け入れることを自身の課題として感じている(とは言え、A氏とB氏との電話で僕は、「B氏が一生不幸なまま死んでもいいと思う」という発言もしている。この発言はむしろバタイユの考えに近いのだろうか)。


●なぜ贈与は「時間を与える」のか
 なぜ贈与が「時間」を与えるのかは、この本にはあまり詳しくは書かれていない。
 モースはお返しに「時間」が必要なのは「当然」のことと言う。以下は、岩野が引用している、デリダがモース『贈与論』から引用した部分(デリダによる強調や注釈は谷が削除した)。
「想定できるどんな社会でも、期限付きで返すことを義務づけるのは、贈与の本性に由来する。いっしょの食事をごちそうになっても、カヴァ酒をふるまってもらっても、護符をもってきてもらっても、当然のこととして、その場ですぐにお返しをすることはできない。どんな反対給付を行うにしても、「時間」が必要なのだ」150
 岩野は言う。
「贈与からの時間差があるから、つまり「遅延」あるいは「差延」があるから、お返しがあり交換が成立する」152
 この本では、贈与が「時間を与える」ことは、何かの「原因」としては語られても、何かの「結果」としては語られない。それはある意味では当然である。なぜなら、それが語られてしまえば、「現れない」ものとしての贈与の、その「現れなさ」が忘れられてしまうからである。
 しかし、僕は語ってしまおうと思う。本当に贈与が「現れない」ものならば、僕が語ったところでそれは「忘れられる」ことはあっても「存在しなくなる」ことはない。だから僕は安心して語ろう。

―――

 一定の時間をおいてからお返しをする感覚は分かる気がする。例えば、気になっている人を車で家まで送る機会があったとする。その時、家に着いた瞬間その人が「はい、これガソリン代」と言ってお金を渡してきたら、何かがっかりするような気持ちにならないだろうか。「ああ、この人は僕に気がないのだな」と思ったりしないだろうか。それどころか、「僕のことを嫌っているのでは?」とさえ思うかもしれない。
 対して、後日、ちょっとしたお菓子とか缶コーヒーとかを何かのタイミングでお礼として貰ったりすると嬉しい(相手が僕に気があるかは置いておいて)。
 交換という意味では同じだが、この二つの例では僕の気持ちが全然違う。
 この例は、交換の、単なる交換にはとどまらない性質を示していると思う。
 それは、この本の言葉を借りれば、「人間関係」に関わる性質である。
 例えば、「贈与は部族間の関係、さらには人間関係を円滑にするための手段なのである」250と岩野も言っている。
 家に着いた瞬間にガソリン代を渡された時のがっかり感は、おそらく、「この人は僕との人間関係を持ちたくないのだな」という感覚からきている。贈与と同時にお返しがある例で最も一般的なのは、スーパーやコンビニでの買い物だ。そこでは品物を貰うと同時にお金を払わなければならない。そして、スーパーやコンビニでは、店員と客との間に人間関係ができることはごく稀である。これが例えば居酒屋などになると、「ツケ」という慣習が登場する。これは居酒屋側の人と客の間に人間関係ができてきて初めて可能となるものだ。
 ここから分かるのは、贈与に対して一定の時間をあけてからお返しをする場合、そこには、相手との人間関係を何らかのかたちで持っていたいという思いがありそうだということである。
 人から何かを貰った時、すぐにお返しをしてしまうと、なんとなく、その貰い物の「味」が薄れる気がする。「重み」が失われると言ってもいい。その人が僕にそれを贈りたいと思った気持ちや、もしかしたら僕のことを思ってそれを選んでいたかもしれないその時間を、瞬時のお返しは無にしてしまう気がする。
 だから、貰ってから、少し時間を置く。お返しをまだしていないその時間、相手の気持ちや時間が僕に少しずつ染みこんでくる気がする。
 贈与が「時間を与える」という時の時間は、この「染みこむ」ための時間なのだ。あらかた染みこみ終えてからお返しをする。染みこみ終えないままお返しをしようとすると、なんとなく、「適切な」お返しができないような気がしてしまう。

 贈与とお返しは、等価交換ではないのだ。
 それは(スーパーやコンビニなどでの)物のやり取りよりも、もしかしたら言葉のやり取り、会話に似ているのかもしれない。会話は、相手の言葉を受け取って、そこにある意味や思いを自分なりに理解し、それを基にしてまたこちらも言葉を発し返す、という動きである。相手の言葉を自分に「染みこ」ませ、その感覚を基にこちらも言葉を発する。会話でのやり取りで一言ごとに長い時間を置くのは一般的ではないが、少なくとも、相手が喋ってから自分が喋る、自分が喋ってから相手が喋る、という順番はある。同時にはしゃべらない。スーパーやコンビニでの買い物では、物を貰うのとお金を払うのとは(理念的には)同時である。言葉のやり取りは(理念的にも現実的にも)同時にはならない。同時に話せば相手が何を言っているか分からなくなるからだ。だから、時間は短くても、会話において「染みこみ」は存在すると思われる。「染みこみ」のない会話はあまり楽しくなかったり満足感がなかったりする。相手の言葉、自分の言葉をお互いに表面的にだけ受け取って、上辺だけ仲がいいように見えるような会話は、した後にとてつもない疲労感をもたらしたりする。また、嫌いな相手の言葉が自分に「染みこむ」のは嫌だったりする。この場合は、「染みこむ」会話は不快だし、「染みこまない」上辺だけの会話は疲れるしで、結局「会話しない」という選択が最善と判断されるだろう。「染みこむ」のを許せるのは、人間関係を何らかのかたちで持ちたいと思える相手だけだ。

 モースやレヴィ=ストロースが(単なる交換とは異なる)贈与交換というかたちで読者に示したかった「感覚」があるとすれば、それは以上のような「感覚」ではないだろうか。それは、相手の贈与が自分に「染みこむ」感覚、「適切な」お返しをするにはあらかた「染みこみ終え」なければならないという感覚、である。

 「喜んで恩を受けた者は、すでにそれを返している」というセネカの言葉を、中島義道は引用していた。
 「染みこむ」ための時間は、「喜んで恩を受ける」ための時間なのではないだろうか。
 スーパーやコンビニでの「同時」のやり取りは、「喜んで恩を受ける」ことを放棄しているのかもしれない。「喜んで恩を受ける」という「お返し」を放棄しているから、そこではお金は、贈与に対する等価な、純粋な「お返し」として機能する。
 だとしたら、時間をおいてからのお返しは、お返しではないと言えるかもしれない。
 お返しは「喜んで恩を受ける」という仕方ですでに返し終えられているからだ。
 だとしたら、時間を置いてからのお返しはお返しではなく、贈与なのではないか。
 贈与交換は、その名の通り、純粋な贈与だけの交換(やり取り)なのではないか。
 お返しとしての贈与(貰ったから返す)ではなく、全ての贈与が、ただ与えるだけの贈与(何ももらわなくても与える)なのではないか。
 しかしそうすると、モースやレヴィ=ストロースの言うような、お返しを「しなければならない」というある種の強制感が説明できない気がする。
 そこは、僕としては、貰った「物」と、貰ったという「出来事」を区別することで解決してみたい。時間をかけることで「喜んで受ける」ことができる「恩」は、貰った「物の恩」なのではないだろうか。そこに、先に挙げた贈与者の「思い」やその品を選んだり作ったりした「時間」を加えてもいい。それらは時間をかけるだけで返すことができる。対して、貰ったという「出来事」、端的な、厚みのない、「記号」的(「もらった-もらっていない」のスイッチ切り替えのような)と言ってもいいような、「出来事」。それは時間をかけてもお返しできるものではないのかもしれない。だから、その「出来事」のお返しは、実際に物を贈り返すという「出来事によって」返す必要があるのかもしれない。そこに強制感が生じるのかもしれない。
 しかし、「象徴的等価物」を返しただけで、つまり贈与を贈与だと「認め」ただけでそれは交換になってしまうというデリダの言説を聞くと、贈与という「出来事」さえも、時間をかけることで返すことのできるもののように思えてくる。なぜなら、(まず、贈与を贈与だと認めることを、贈与という「出来事」があったことを認めることと同意味であると解釈できるとして)「出来事」が交換として説明できることであるということは、つまりその「出来事」が「返せる」ものであるということだからである。……おそらく、そうなのだろうと僕も思う(だから前段落で示した区別は撤回する。しかし、返すことの「難しさ」の差異はそれほど小さくないとは思う。また、そこに区別がなく、連続的であるとすると、逆説的に、貰った「物」は時間をかけるだけで返すことができるという先ほどの記述は疑わしいものとなるかもしれない)。おそらく、「出来事」さえも時間をかけることで返してしまうことができた場合、目に見えるお返しはなされないだろう(と僕が考えるとしたら、且つ、贈与されたらお返しをしなければならないというある種の強制感を「どんな場合でも」感じるとモースやレヴィ=ストロースが主張するとしたら、彼らの考えと僕の考えは対立している)。


●普段と今回
 普段なら、それほど難解ではない本一冊に対してこんな量のメモを書くことはない。なぜ今回は書いたのかといえば、おそらくA氏から贈与されたという感覚があったからだろう。『贈与論』はA氏が貸してくれたものであるというのもあるし、また、日々僕の書くものを読んでくれたり、話を聞いてくれたり、居酒屋で多めにお金を払ってくれたりという贈与の積み重ねもある。だから僕は、このメモを書くことでお返しをしようとしているのだと思う。
 しかし、お返しとして文章を他者に贈るということにはジレンマがある。文章を贈られた相手がその文章を読むことは、文章を書いた僕にとって相手からの贈与であるからだ(文章を読むことは労力のかかることだし、僕の書いた文章を読んでほしい(=贈与してほしい)という意識が僕にはある)。だから、お返し(=贈与)のつもりで文章を贈っても、それが読まれてしまうとまた僕は贈与し返されてしまうことになり、僕の「負債」は常に残り続ける。


●最後に
 マリオンについての章(10章、11章)はあまり僕の中で引っかかりがなく、比較的サラサラと読んでしまった。ひとことで言えば「ハイデッガーの焼き直しじゃん」という感想である。ハイデッガーが「エルアイクニス」という「贈与する主体としての何ものか」を根源に置くのに対してマリオンは贈与を根源に置く、というマリオンのハイデッガーに対する優位性についても、ハイデッガーはそのあたりのことを折り込み済みであえて「エルアイクニス」を置いているのではないかという気がしてしまう(マリオンの本も「エルアイクニス」が登場するハイデッガーの論文も僕は読んだことがないので、もちろん完全に、「気がする」というレベルの話に過ぎないが)。そういうことをするのがハイデッガーの面白いところではなのではないだろうか、と僕は推測している。
 終章には、この本の中で僕の最も印象に残った箇所があるが、それについてはまだ書かないでおこう。もうこのメモを書く気力が僕に残っていないというのもあるし、もう少しその箇所が自分に「染みこむ」まで待ちたいというのもある。「書く」ことはおそらく僕にとっては贈与である。もっと染みこんでから、この本への(A氏への、ではなく)のお返しとして、何か書きたいと思う。
 補章はそれほど面白いと思わなかったが、「《贈与》したほうが返礼を求めようが、求めまいが、《贈与》されたほうには《借り》が生じる」283というサルトゥー=ラジュの指摘だけは面白いと思った。《贈与》したほうと《贈与》されたほうのこの非対称性が贈与交換システムを上手く説明してくれそうな気がする。

 また、贈与についての文章で僕の印象に残っているものとして、宮台真司 『正義から享楽へ 映画は近代の幻を暴く』 blueprint 2017年 の 『リップヴァンウィンクルの花嫁』の章を挙げておく。