哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「何もしない」ことができるようになった!

「何もしない」ことができるようになった、なんて、おかしな言い回しなのかもしれない。

でもかつて、僕は、何もしないことができなかった。
いつも、頑張ってしまっていた。

しかも、したいと感じていないのに、頑張ってしまっていた。
いや、正確に言えば、したいとは感じているのかもしれないけど、その「したい」は、
「この世界で生き延びていくために」
「この世界で死なずに生きていくために」
「この世界で他者から認められるために」
「この世界で邪魔者にならないために」
「この世界で他者から文句を言われずに生きていくために」
「この世界でひっそりと生きていくために」
「この世界で他者から「よい」と思われながら生きていくために」
「この世界で他者から「生きていいよ」と思われるために」

……そういう理由でしたいと思うのだった。

だからツラかった。

「他者から」与えられた「義務」を、
自分で「勝手」に「妄想」して、
それに従わなければ「生きていけない」「生きていてはいけない」と感じて、
頑張ってしまう。

それがツラかった。

「義務」に従うのが、とにかくツラかった。
「義務」がとにかく嫌いだった。

でも、「義務がある」と、僕は思ってしまう性格らしかった。
ある意味では、「義務」が好きだったのだ。

「義務」に従うと、ある程度「成果」は出た。
だから余計に頑張ってしまうのだった。
頑張っても成果の出ない、能力の低い人間だったら、諦めるのも早くなったかもしれない、なんて思ったりする。


……


僕はある時期から、「頑張る」のをやめていくようにした。
「義務」に従うのをやめていくようにした。

徐々に、そうした。

「義務」に囚われた人間なので、それを無視するのは難しかったけど、徐々に、徐々に……


そうして、今は、ものすごく怠惰な人間になったと、自分では思っている。
毎日ダラダラしている。

楽になってきた。

もう、「義務」に従うのは、無理だと思う。

「義務」に従わなくても、生きていける、と知った。
多少、他人から軽蔑されることもあるけど、大丈夫だ。

他人から軽蔑される不安よりも、「義務」に従うつらさが勝るようになった。

で、「何もしなくなった」。
「何もしない」ことができるようになった。


さて。
と、思う。

「何もしない」とは言っているけど、

本は読む。
文章を書く。

それが好きで、やる。

「義務」ではなくても、それは、したい。
それをしていると、単純に、「幸せ」である。
と、感じるようになってきた。

「義務」に従っていた頃は、たぶん、「幸せ」なんて、求めていなかった。
「幸せ」なんてものが「ある」とは思えていなかったのかもしれない。
「好き」とか「嫌い」とか、「気持ちいい」とか「気持ち悪い」とか、そういう感情が、死んでいた。

「義務」ではないなら、できる、と知った。

頑張らなくていい。
頑張らないほうがいい。



……



自殺するよりは、全ての他者に大迷惑をかけながらでも、生きていたほうがいい、と僕は思う。



……



「義務」で「頑張る」時期があった。

そして、「何もしない」時期が今である。

予感に過ぎないが、「義務」に従うのでは「ない」仕方で、何かに力を注ぐということ(さしあたり「頑張る」こととは別概念としておこう)が、できるようになる気がしている。
今だって、本を読んだり文章を書いたり、自分の好きなようにやっていることはあって……でもそこから、それらを、自己閉鎖的な仕方ではなく、他者にも関わるような仕方で、でも「他者」からの「義務」を感じるのでは「ない」仕方で、するようになれる時期が来る、という、予感がある。

でも、そうならなくてもいい。

仮にそうなったらこの社会でより生きやすくなるなぁと思うから、そういう予感を持ってしまう部分もあるわけで、、、
でもその予感を実現するために頑張る必要はない。

僕は今のままでいい。

のである。