哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

知る、似る②

他者の話を聞いたりして他者を知ろうとする時、その他者の話が「正しい」かどうかとか、自分がその話に「共感」をするかどうかとかは、全くどうでもいい。

ただただ「その話」を聞くこと。できるかぎりその話「だけ」を聞くこと。
その話をまるまるそこに存在させること。ほかのことは脇に置いておくこと。

あるいはこう言ってもいい。
自分がその話に完全に共感しているかのように聞くこと。
その話に完全に共感している人になりきって聞くこと。
もはや、その話をしている人になりきって聞くこと。

僕にとって、他者を知ることとは、単に他者の話や考えを知ることではない。
他者を知ることとは、文字通り、その「他者を」知ることである。
だから、他者を知ることとは、その人の話を聞くことであると同時に、その話を語るその人自身を知ることである。その人の考えを知ると同時に、その考えを持つその人自身を知ることである。

話、と、話を語るその人自身。
話は、ただ聞けばよい。「自分が」聞けばよい。「自分」が「自分」であるままで聞けばよい。「自分」を維持したままそれはできる。
しかし、その人自身を聞くことは、「自分」を維持したままでは、難しい気がする。少なくとも、「自分」を維持「しよう」としたままでは、難しい気がする。「自分」のことはどうでもいい、という姿勢である必要がある気がする。

……

自分と相手とである考えが共通することには2種類ある。
自分の人生の文脈と相手の人生の文脈がそれぞれ別個にあり、偶然それがある一つの考えという地点で一致する、という場合。
そしてもう一つは、同じ文脈で考えが一致する場合だ。

僕は、前者を「同意」、後者を「共感」と呼んでいる。

自分とは人生の文脈が異なる人を「他者」と呼ぶとすれば、後者(=共感)は、おそらく究極的には不可能である。

でも、それに近い状態へ行くことはできる気がする。

「同意」を「共感」と混同したくない、と思う。
自分が自分のままであるならば、それは単なる「同意」である。他者に自分が似るのでなければ、つまり他者の人生の文脈を少しでも体感するのでなければ、それは「共感」ではない。

……

僕の感覚ではそれは、「自分を棄てる」というのとは違う気がする。これについてはまだ言語化できる気がしていない。
でも、とりあえず思うのは、生身の自分が他者に触れるなら、他者の熱は自分に伝わるだろう、ということだ。それは「他者の」熱である。
だから、僕にできるのは、できるかぎり生身であること。あけっぴろげであること。裸であること。格好つけないこと。装飾品で体を覆わないこと。なのだと思う。

そうしたいと僕はたいてい思っている。