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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

腹が空くから食べてるだけよ

エマニュエル・レヴィナスの『実存から実存者へ』に、こんな文章があった。

「もちろん私たちは食べるために生きているわけではないが、生きるために食べると言うのも正確ではない。私たちは腹が空くから食べるのだ。」(西谷修訳)

要は、食べることは生きることとは関係がない、ということだ。

ここでの「生きること」は、「実存すること」とか「存在すること」と言い換えられる。

上の引用は、食べることだけでなく、欲望全般に言えることである。

「欲望を抱いているとき、私は存在することなど気に懸けず、ただ欲望をそそるもの、私の欲望をすっかり鎮めてくれるはずのものに夢中になっている。」(同)

(「欲望をそそるもの」と「欲望をすっかり鎮めてくれるはずのもの」は同じものである。「りんごを食べたい」と思う時、「りんご」は欲望を誘発させたものなのだから「欲望をそそるもの」と言えるし、また、りんごを食べたいだけ食べれば「りんごを食べたい」という欲望は鎮まるのだから「欲望をすっかり鎮めてくれるはずのもの」とも言える。)

欲望は、欲望をそそる「もの」、欲望をすっかり鎮めてくれるはずの「もの」、と関係する。欲望は「もの(=事物)」と関係する。

そしてそれは、「世界」の「内」でのことである。

「世界内に存在するとは、諸々の事物に結ばれてあることだ。」(同)

存在(実存)することは、「世界」の「内」でのことではない。それゆえ「もの(=事物)」とも関係しない。

存在(実存)することが「世界内」のことではないのは、存在(実存)することが、まさに「世界内」に存在(実存)し「始める」ことであるからだ。

卵を割る時、卵の中身は殻の「中」から「外」へと出ていく。つまり、卵の中身は「中」と「外」の両方に関わる。だから、卵を割るという行為は、殻の中と外の両方に関わることであり、どちらか一方の「内」でのことではない。いわば、その両方の境界に位置している。

「始める」という事態は、卵を割ることのように常に境界における事態であり、したがって「存在(実存)する」ことが常に存在(実存)し「始める」ことだとすれば、「存在(実存)する」ことは境界における事態であり、したがって「世界」の「内」でのことではない。

言い換えるなら、「存在(実存)する」ことは「出来事」である。存在(実存)する「こと」である。
「こと」は、本質的に「もの」とは関係がない。

……

「世界」の「内」でのこと(腹が空くから食べる)と、そうでないこと(=存在(実存)に関わること)を分けるのは重要だと思う。

そこを分けなければ、それほど大事でもないことを大事だと思い込み、無用な悩みを引き起こすことがある。私たちは腹がすくから食べるだけであり、「生きる意味」のような大仰なものはそこでは関係ない。

逆に言えば、「世界内」のことではない問題を「世界内」の問題へと引き込んでしまってもいけない、ということだ。

「食べるために生きている」とか「生きるために食べる」とかいう言説は、レヴィナスに従えば、意味をなさない。生きることと食べることはお互いに関係がない。

境界、言い換えれば、限界。それを明確にすること。

……

最近ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んでたから、それに引っ張られて僕はレヴィナスを解釈してると思われる。

「6・45 […略…]限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。」(『論理哲学論考野矢茂樹訳)