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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

知性改善論、最高の善、真理に開かれた人間

以下の文章は僕が大学2年生の時の最後に書いたレポートである。先生から課題図書が数冊挙げられ、その中から一冊ないし数冊を選んでそれについてレポートを書くという課題だった。

パソコンの中を眺めていたら見つけて、久しぶりに読んだら、なんだか良かったからここに載せる。何かをするにあたって苦難とか障害とかを感じていないかのような、そういう文章である。今よりも真っすぐで単純であるように思う。明るいレポートである。

 

……

 

 

最高の善を求めて

真理に開かれた人間は何をするか

谷翔

 

選んだ書物 スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳 岩波文庫 1978年 第32

 

  1. はじめに

 本稿で扱う事柄は以下のことである。すなわち、スピノザが世界や人間をどのようなものとして捉え、それらの真の観念にどのようにアプローチしようとしたかということ、そして、それらの探究を通じて、実践の場における人間のあり方をどのようなものとして示そうとしたか、ということである。

 

2 『知性改善論』の概要

 この書物で目指されているのは、その名前のとおり、自らの知性を最高の善へと導くための方法を示すことである。その大まかな内容を以下に示す。( )内の番号は、内容の区切りに付されている1110の番号を示したものである。

 

2.1 最高の善

 スピノザの善の探求は以下のような決意によって始められる。

 

我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。(11

 

以上のように、彼は、それを得ることで「心が動かされる」「不断最高の喜びを永遠に享受できる」ところの善を目指している。これは明らかに単なるニュートラルな知的欲求ではない。その善に関わることによって自分のあり方が変わってしまうような善、すなわち、実践において影響力のある善である。「ついに決心した」(12と述べられていることからも、この善の探求は彼の生にとって大きな影響力を及ぼすような行為であることが分かる。

 また、彼の言うところによると、この善は要するに以下のようなものである。すなわち、場合に応じて善いとも悪いとも言われうるような相対的なものではい、それ自体で善い、人間の本性・知性の本性に到達するための手段となりうるもの全て、を彼は最高の善と呼ぶ(12)、(13)。そして、彼はこの本性を「精神と全自然との合一性の認識」(133だと言う。このことについてはあとで詳しく述べる。

 以上に述べたような善の定義を示したあと、彼はその探求のための方法を論じていく。

 

2.2 退けられるべき方法

 彼はまず4つの知覚様式を提示し、その中の一つ、すなわち「事物が全くその本質のみによって、あるいは、その最も近い原因の認識によって知覚される場合の知覚」(194を最善の知覚様式であると示す。そして、退けられるべき探求方法について論じる。

 退けられるべきなのは、「無限につづく探求」(305である。これは以下のような探究である。例えば、Aという対象について知ろうとしたとき、Aがどのようなものであるか、ということを示すAの観念を我々は持つことになる。この場合、Aの観念も一つの対象となりうるため、Aの観念はどのようなものか、ということを示すAの観念の観念を持つことになる。これは無限に続く探求である。この探求が無限に続くからと言って、我々はAという対象について知りえないという結論を出すのはありえない、とスピノザは言うのである。

 彼は一つの例を出して言う。

 

鉄を鍛えるためにはハンマーが必要であり、ハンマーを手に入れるためにはそれを作らねばならず、そのためには他のハンマーと他の道具が必要であり、これを有するためにはまた他の道具を要し、このようにして無限に進む。しかしこうした仕方で、人間に鉄を鍛える力がないことを証明しようとしても無駄であろう。(306

 

 本当に鉄が鍛えられているかどうかをこのような方法で探求する必要はない。なぜなら、現に鉄はハンマーによって鍛えられているからである。知に関してもこれと同じである。観念を積み重ねることによって探求する必要はない。なぜなら、対象の観念を我々は現に持っているからである。

 このような言説にもスピノザの実践的な姿勢が現れているだろう。実践を重んじるがゆえに、このような探求を一蹴するのである。このような構造の探求方法に心が動かされることはないからだ。無限の探求を続けても、最終的な結論が出ず、判断を停止せざるをえない。判断を停止してしまうと実践において何を為すこともできないだろう。

 

2.3 正しい方法

 スピノザの示す正しい方法を以下のようにして導く。まず、上で見たような探究方法では真理を知ることはできない。そこで彼は以下のように言う。

 

真理であることが確かになるためには、真の観念を持つこと以外何ら他の標識を必要としない(357

 

むしろ方法は、真の観念を他の諸知覚から区別し、それ〔真の観念〕の本性を探求し、以て真の観念がいかなるものであるかを理解することに、そしてこの結果我々がどんな理解能力を持つかを識り、理解すべき一切をその規範に従って理解するように精神を制御すること……に存する。(378

 

 まずスピノザは、その観念が真の観念かどうかということを、その観念自体によって知られることとしている。そして、方法はその真の観念から導き出されるものだと言う。「その規範」と言われているものが、真の観念から導かれる規範・秩序である。我々はまず真の観念を持つ。そして、その観念がいかなるものであるか、その観念はどのような特性を持つかを明らかにし、そこから導かれる「その規範」によって示されている秩序に従って他の物事を理解すること、そのように精神を制御することが、スピノザの言う、最高の善へ向かうための「方法」なのである。そして、最高の善・最高の知性の本性に到達するのは、「最高完全者」(399の真の観念を持った時である。すなわち、自らの知性が「最高完全者」と一致した時である。「最高完全者」は全ての源泉・根源であるから、それを理解し、そこに現れる規範や秩序に従って物事の理解をしていけば、全ての物事を正しく知ることができるのである。

 

2.4 方法の逆転

 スピノザは『知性改善論』の終盤で、そこまで論じてきたことをひっくり返すようなことをする。それは以下のようなことである。彼は対象の本質を「定義」(9310と呼び、知性の定義に関して、「その定義はそれ自体では完全に明瞭ではない」(10711とした。そしてそのため、知性の諸特性を列挙することで知性の定義を明らかにしようとするのである。

 この方法は、それまで彼が論じてきた方法とは逆方向の方法である。彼はそれまで、まず真の観念を持ち、そこから様々な規範や秩序を導き、他の諸々の知が成り立つと言ってきた。つまり、定義が先にあり、そこから諸特性が導かれるのである。知性の諸特性は、知性の真の観念から導き出されるはずのものである。しかしここでスピノザは、知性の諸特性から知性の定義を導くという方法を提示しているのである。

 

3 逆転の理由とそこに見える実践性

 ここでは、以上のような方法の逆転が起こった理由と、その理由から見えてくる真理探究への可能性を示す。

 

3.1 方法が逆転した理由

 先述したような方法の逆転が起こった理由は、スピノザの世界観・人間観を考察すると明らかになる。すなわち、彼は人間を世界の一部分としての存在と捉えていたのである。

 これはつまり以下のように説明される。彼は虚偽の観念について論じている箇所で言う。

 

さてもし真実な、すなわち妥当な思想を形成することが、一考して明らかなように、思惟する実体の本性に属するなら、非妥当な観念は確かに次のことから、すなわち我々は或る思惟する実体の一部分であって、その思惟者の思想のあるものは完全に、或るものは部分的にだけ我々の精神を構成しているということ、ただこのことからのみ我々の中に生ずるのである。(7312

 

 つまりスピノザは、我々のような人間を「或る思惟する実体の一部分」と捉えており、それゆえに人間は、「思惟する実体」の持つ完全性にはまだ至っていない不完全な存在とみなされるのである。したがって、我々は真の観念を簡単に得ることはできない。だからこそスピノザは、知性の本質、知性の定義を明瞭に知ることはできていないと考え、それを導き出すために知性の諸特性を挙げたのである。これが方法の逆転が起こった理由である。

 

3.2 真理に開かれた存在としての人間

 以上のような方法の逆転は、「やむをえずそうした」と捉えることもできるかもしれないが、必ずしもネガティヴな意味合いだけを持っているわけではない。このことは人間が持っている一つの可能性を示している、と考えることができる。それを示すために、「人間は真理へと開かれている」ということをここで論じたい。

 まず、用語の整理をしよう。先ほど出てきた「思惟する実体」についてである。これは、「全自然」や「最高完全者」と同じことを意味すると考えられる。なぜならこれらは皆、人間知性と同じ本性を持っており、しかし人間はまだそこに到達していないところのもの、人間がそこへの到達を目指すものとして描かれているからである。だからすなわちこれらは、2.1で示した「最高の善」なのである。そしてこれらは不完全な人間を含む完全なものである。それゆえこれらは、人間よりもある意味で大きなものと考えることができる。したがって、我々を含んでいる我々よりも大きなものとして、これらを「世界」のことと捉えても差し支えないだろう。

 先にいくつか引用した、「精神と全自然との合一性」「妥当な思想を形成することが、一考して明らかなように、思惟する実体の本性に属するなら、非妥当な観念は確かに次のことから、すなわち我々は或る思惟する実体の一部分であって」等や、先述した説明から分かるように、我々人間(の知性)と世界は本性を共有しており、また、人間は世界の本性に至っていない。そして、世界の本性は「最高完全者」の本性、すなわち、全ての真理を導き出すための源泉である。したがって、人間は真理にはまだ到達していないが、到達しうる存在として存在していると言えるのである。全体の中の部分であるから完全には全体の本性に到達できないかもしれない。しかしその本性・本質は同じものであるわけだから、到達する可能性はやはりある。人間はそのような微妙な立ち位置にいる存在ではあり、真理へと開かれた存在なのだ。

 したがって、方法の逆転は「やむをえずそうした」というようなネガティヴなものではなく、真理に開かれた存在としての人間が、真理に近づけるということを信じ、妥当な真理探究の方法を探っている中で起こったものである、というようなポジティヴな意味合いで捉えることができるだろう。

 

4 自分を知るということ

 ここまで、自分と世界の関係や、自分と真理の関係について論じてきた。ここでは、それらの関係の中に見えてくる帰結を示したい。その帰結はすなわち、他者とともに真理を探究できるということである。

 

4.1 自分と世界、自分と他者について

 これまでの論を見ていくと、一つの結論として以下のことが言えるだろう。すなわち、自分を知ることは世界を知ることでもあり、世界を知ることは自分を知ることである。そしてそれが、真理を知ること、真の観念を持つことにつながるのである。なぜなら、自分と世界は本性を共有しているからであり、また世界は真理の源泉だからである。

 また同じように、自分を知ることは他者を知ることであり、他者を知ることは自分を知ることである、とも言えるだろう。他者も自分と同じように世界の一部であり、真理に開かれた存在だからである。

 これらのことは、自分の本性に関わることであるから、「心が動かされるような或るもの」や「不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るもの」になりうるだろう。自分、世界、他者に働きかけていくことが、自分を変える端緒となるのである。

 

4.2 他者とともに真理を探究すること

 これまでの論から、我々が世界の一部であることによって、我々は自分と他者を尊重し、他者とともに真理探究を行うことができる、という結論が引き出せるだろう。これは以下のように説明できる。

 我々は皆(自分も他者も)、真理に開かれた存在である。つまり、誰もが真理に到達する可能性を持っており、そして誰もがその真理に到達していない可能性も持っているのである。このことを知った人間は、自分の考え方に固執することも、あらゆる考え方に対して否定的意見を言うようなことも、しないように努めるだろう。なぜなら、自分の考え方に固執するのは、自分が真理に到達していない可能性を無視しているし、あらゆる考え方に対して否定的な意見を言うのは、自分が真理に到達する可能性を無視しているからである。

 また、このことはすなわち、他者とともに真理を探究できるということである。他者も自分と同じように真理に開かれていることを知っていれば、他者の言うことは真理に近づきうることかもしれないため、それを真剣に聞くようになるだろう。また、他者はまだ真理に到達していない可能性もあるのだから、他者が言っていることが間違っていると感じた時は、それを他者に言うだろう。これらがすなわち他者を尊重するということである。また同じように、自分は真理に到達していないかもしれないのだから、他者の忠告をよく聞くようになるだろうし、自分は真理に到達しうるのだから、思ったことを素直に言うようにするだろう。これらがすなわち自分を尊重するということである。以上のように、他者とともに真理を探究することは、我々が真理に開かれた存在であるということによって可能になるのである。そして、4.1で示したような、自分を知ることによって他者を知る、他者を知ることによって自分を知る、ということもここに表れてくる。真理探究の過程の中で、自分の言ったことによって他者の見えていなかった一面が見えたり、また逆のことが起こったりするからだ。これがまさに、真理を探究するということなのであり、そしてこのことが、「最高の善」につながることなのである。

 

5 スピノザの実践性

 以上のように、スピノザの『知性改善論』からは、多くの実践的要素を読み取ることができる。それはやはり、スピノザが最高の善、すなわち「不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るもの」を求めていたからだろう。最高の喜びを得るためには、確実な要素だけに注目していても何も進展しない。人間は世界の中の一部分としての真理に開かれた存在という、微妙で不確実な存在である。しかし不確実だからといって喜びを得られないわけではない。不確実だからこそ、我々は実践を積み重ねて最高の善へ向かおうとするのである。

 

6 おわりに

 このレポートでは、スピノザの著した『知性改善論』をもとに、人間が真理へと開かれた存在であること、自分を知ることは世界・他者を知ることであること、これらのことによって他者との真理探究が成立しているということ等を論じた。

 これらのことは、我々の生活にも深くコミットしているだろう。我々はやはり喜びを持って生きたいと思っているし、その喜びはほんの一時のものではなく出来れば永遠なものであってほしいと思っている。そのような我々にとって、スピノザの述べる言葉は大きな意味を持っている。

 

 

 

1スピノザ『知性改善論』畠中尚志訳 岩波文庫 1978p11

2同上 p11

3同上p18

4同上p22

5同上 p28

6同上 p29

7同上 p32

8同上 p33-34

9同上 p35

10同上 p74

11同上 p83

12同上 p60

 

 

参考文献

上野修スピノザの世界 神あるいは自然』講談社現代新書 2009年 3

朝倉友海『概念と個別性 スピノザ哲学研究』東信堂 2012年 1

 

参考資料

授業で配られたプリント