哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

『論理哲学論考』を読みながら思ったことを書く

ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んだ。読み返してみる。

僕がまず躓いた箇所はここだ。

「1.13 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。」

「論理空間」ってなんやねん。

自分にとって難しい哲学の本を読む時に大事なのは、分からない部分は分からない部分として置いておくことである。自分の小さな頭で勝手に解釈して分かった気になってはいけない。

というわけで、「論理空間」、保留。

次にちょっと引っかかったのはこれ。

「1.21 他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる。」

例えばここで、「え、○○をしないと✕✕が起こらない、みたいなことってあるじゃん! 例えば、力を加えないと物は動かない、とか。ウィトゲンシュタイン、馬鹿じゃーん」などと思ってはいけない。

ウィトゲンシュタインと僕たちとでは、世界の捉え方、事象の捉え方が違うかもしれない。もしかしたらウィトゲンシュタインは、「力を加える」ことと「物が動く」ことを、異なる2つの事象とは捉えず、それだけで1つの事象と捉えるのかもしれない。あるいは、力を加えなくても物が動くことがある、とウィトゲンシュタインは考えているのかもしれない。因果関係といったものを無視する世界観をウィトゲンシュタインは生きているのかもしれない。
実際どうなのかは、今のところ、分からない。

まあとにかく、自分が考えたこともない世界観をこの人は提示しているのかもしれない、と思っておくことだ。

そして、また僕が躓いた箇所。

「2.012 論理においては何ひとつ偶然ではない。あるものがある事態のうちに現れうるならば、その事態の可能性はすでにそのものにおいて先取りされていなければならない。」

「論理」ってなに。
さっき「論理空間」で躓いたので、それと関連するであろう「論理」という語には警戒するのが当然だ。
しかも、「論理」と言ってるけど、大学の論理学の授業で習った、「AならばB、BならばC、したがってAならばC」みたいな、命題を導いていく規則の話とは違うっぽい……。なんか、命題とかっていうより、「現実」の「もの」の話っぽい……。「もの」に「論理」があるの??

みたいな。

「論理」という語についての僕のもともとのイメージが狭かったりするのかもしれない。

とりあえず、保留。

……

読み返してみて今思ったけど、こうやってブログとかに書いておきたくなるのは、分かりそうだけど分からないなぁ、みたいなこと。分かることや、全然分からないことは書く気にならない。

……

「対象」っていうのが出てくる。
論理哲学論考』に出てくる「対象」って、いまいちよく分かんないんだよね。
古田徹也が角川選書で出してる解説書でも言われてたけど、「対象」ってなに? 何のことを「対象」って呼んでるの? って思えてくる。

けど、「それ、何のことを言ってるの?」っていう疑問は、哲学の本を読む上ではあんまり有効ではないと、僕は思っている。
「それ、「何のこと」を言ってるの?」っていう疑問は、その本が言っている事柄を、自分がそれまでに捉えていた世界の中にあるもの、自分の世界の中にあるものに当てはめようとする志向を持っている。「「何のこと」を言ってるの?」→「ああ、「これのこと」を言ってたのか」。例えば、「「何のこと」を言ってるの?」→「ああ、「犬」のことを言ってたのか」。この場合、その本を読む前から、彼は「犬」のことを知っていた。彼の捉えた世界の中には「犬」があらかじめ存在していた。彼の世界の中にあらかじめ存在していた「犬」を、本の中で言われていたあるものに当てはめたのである。したがって、ここでは彼の世界の中に新しく存在し始めたものはない。彼が新しく知ったものはない。

哲学の本は、この世界の中になかった、自分の世界の中になかった、でもなんとなくありそうな感じを抱かずにはいられないもの、をなんとか描き出そうとする。
つまり、新しいもの(でもおそらくどこか懐かしいもの……)。

「これって何のことを言ってるの?」と思ったら、立ち止まって、「これは、僕の世界の中にはないものなのかもしれない」と思ってみる。
思って、読み進める。
哲学の本はそうやって読む。

さて。

「2.11 像は、論理空間において、状況を、すなわち諸事態の成立・不成立を表す。」

また「論理空間」出てきた……。

とりあえず今日は終わり。
続きは書くかもしれないし書かないかもしれない。