哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

責任、喜び、サン・テグジュペリ

著者サン・テグジュペリは飛行機で郵便配達をする仕事をしている。ある時、ギヨメという同僚が、大きな事故でもう死んだと思われていた中、数日後に生還した。著者は彼を讃えて書く。

「彼の偉大さは、自分に責任を感ずるところにある、自分に対する、郵便物に対する、待っている僚友たちに対する責任、彼はその手中に彼らの歓喜も、彼らの悲嘆も握っていた。彼には、かしこ、生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対して責任があった。それに手伝うのが彼の義務だった。彼の職務の範囲内で、彼は多少とも人類の運命に責任があった。」

生きている人間のあいだに新たに建設されつつあるものに対する責任、人類の運命に対する責任。

「人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。」

人間であるということは。
人間であるということは。

自分と他者。
自分と世界。

これらの関係はどんなだろう。

分かんないけど、他者や世界が “自分の延長として” 存在しているから他者や世界に自分が感じ入ることができる、ということではないだろう、と思う。と言うか、思いたい。思いたいわしがいる。

自分の延長ではないけど、全くの他人でもなくて、じゃあ何かというと、“他者や世界の” 延長に自分が存在する、ということなのではないか、と思う。と言うか思いたいわしがいる。

自分の延長に他者や世界があるのではなく、他者や世界の延長に自分がある。

前者では、他者や世界は自分の一部である。
後者では、自分が、他者や世界の一部である。

後者では、自分は、他者や世界の建設を手伝う、他者や世界の建設に加担する、他者や世界の建設に貢献するための道具である。

「世人はよくこの種の人間を、闘牛士や賭博者と混同したがったりする。世人は彼らが死を軽んずる点を吹聴する。だが、ぼくは死を軽んずることをたいしたことだとは思わない。その死がもし、自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしていないかぎり、それは単に貧弱さの表われ、若気のいたりにしかすぎない。」

もし自ら引き受けた責任の観念に深く根ざしているならば、その死は、「人間のまことの死」である。

「ぼくは人間のまことの死の一つを思い出す。それは一園丁の死であった。彼は僕に言った、〈旦那……わしにも土を掘るのが苦労だったことがござんした。リューマチで足が痛かったりすると、わしもこの奴隷仕事を呪いましたよ。ところがどうでしょう、このごろでは、わしは土を掘って掘って掘りぬきたいほどですわい。土を掘るってことがわしには、いい気持なんでさあ! 土を掘っていると、気が楽でさあ! それにわしがしなかったら、だれがわしの樹木の手入れをしてくれましょう?〉彼は自分がそれをしなかったら、一枚の畑が荒蕪地になるように思えるのだ。彼は自分が耕さなかったら、地球全部が荒蕪地になるように思えるのだ。彼は愛によって、あらゆる土地に、地上のあらゆる樹木に、つながれていた。彼こそは仁者であり、知者であり、王者であったのだ。彼こそは、ギヨメ同様、勇者であったのだ。彼が自らの創造のために、死に反抗して、戦いつづけていたあいだじゅう。」

「彼は愛によって、あらゆる土地に、地上のあらゆる樹木に、つながれていた」。彼は「つながれて」いるのであり、彼「が」つないでいるのではない。彼は、土地に、樹木に、「つながれて」いる。だから、「愛」とは、おそらく「彼の」愛ではない。「彼に」愛があるわけではない。愛は幸運にも彼のもとで発現したのだ。そして彼を土地や樹木につないだ。

彼は自分が土地や樹木を手入れしなかったら「一枚の畑が荒蕪地になるように思える」。「地球全部が荒蕪地になるように思える」。

だから彼はそれをせざるをえないのだ。
このことが「責任」である。

彼は「土を掘るってことがわしには、いい気持なんでさあ! 土を掘っていると、気が楽でさあ!」と言う。

責任とは喜びである。
だから、喜びがないなら、それは責任において為されていることではない。

責任とは、他者や世界のための道具としての自分の責任とは、「自分が喜ぶことをする」ことだ。自分が心から喜びながらことを為す、それが他者や世界に貢献することになる。自分が心から喜びながらことを為す、そこで他者や世界を感じる。「自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じる」。それが「人間であるということ」だ。自分とは、他者や世界から、「喜びながらことを為す」ことを義務として課された存在のことである。


……と思うとわしは気が楽になる。だって、自分の喜ぶことをしていいんでしょ?

他の人はどうなんだろう?

……

引用は、サン・テグジュペリ『人間の土地』新潮文庫 63-65 より