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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

〈ある〉(イリヤ)、恐怖

レヴィナスは、「〈ある〉がふっと触れること、それが恐怖だ」と言う。

「〈ある〉」の原語は「il y a」である。英語なら「there is」、あるいは「it is rain」とかの「it is」。つまり、非人称、「私が」とか「彼が」などと行為の主体を指定しない、「誰が」「何が」を指定しない、そういう「ある」。

ただの、単なる、〈ある〉。

だから、もちろんそこに私(自我)はない。「自我と呼ばれるものそれ自体が、夜に沈み、夜によって侵食され、人称性を失い、窒息している」。「夜」には「何」も見えなくなる。真っ暗なところでは「何か」と言えるものがなくなる。全てが融ける。名前の付けられるものがなくなる。〈ある〉だけがそこにはある。私(主体)の「前」に〈ある〉があるのではなく、私すらも〈ある〉のうちに融けるのだ。私の「意識」が融けるのだ。

だから、〈ある〉に触れることは恐怖である。「恐怖は言ってみれば、意識からその「主体性」そのものを剥奪する運動なのである。それも、無意識の内に意識を鎮めることによってではなく、意識を非人称の〈目覚め〉のうちに、レヴィ=ブリュールの言う〈融即〉のうちに、つき落とすことによって」。

何かと何かの融即は、その何かと何かが同じ部分を持っているということではない。同じ部分を共有しているから結局は同じものだ、ということではない。融即=〈ある〉は、そのような、「存在者としての「個別性」」を維持したあり方ではない。

「融即(participation)において、主客両項の自己同一性は消滅する。両項は、それぞれの実体性そのものの根拠を脱ぎ捨てるのだ。ひとつの項と他の項との融即とは、何らかの属性を共有することではない。ひとつの項が他の項なのである」。それが〈ある〉だ。

さて、〈ある〉の恐怖は、何も「なくなって」しまう、という不安ではない。つまり、「終わり」の、全てが終わってしまうことの不安ではない、すなわち、「死の不安」ではない。

〈ある〉のうちでは、「私」や「彼」の個別性はなくなる。いわば、「私」や「彼」は死ぬ。しかし、そこには〈ある〉が残る。「何か」「誰か」と言えるものが全てなくなっても、何もないその空間とでも言うようなものが残る。「暗闇が中身であるかのように空間を満たしている。この中身は充満しているが、何もない虚無によって充満している」。

だから、〈ある〉への融即とは、存在しなくなるということではなく、どうしても存在してしまうということなのである。〈ある〉への融即とは、「まったき否定のさなかに回帰する〈ある〉、「出口なき」〈ある〉への融即である」。だから、〈ある〉は「いってみれば、死の不可能性」である。

「殺すことも死ぬことも、存在からの出口を求めること、自由や否定が作用を及ぼす場所へと赴くことである。だが恐怖とは、この否定のただなかにそれでも何ひとつ変わらなかったかのようにして回帰する〈存在する〉という出来事だ」。「「それでおしまいだ」はありえない」。「恐怖は危険から生まれるのではない」。恐怖は、「死の危険や苦痛に出会う危険があることを私たちに啓示しているのではない」。

私たちは、「存在するのが怖い」のだ。「「ああ、明日もまた生きねばならぬのか」、無限の今日に内包された明日。不死性の恐怖、実存のドラマの永続性、その重荷を永遠に引き受けねばならないという定め」。

その「存在」は、非人称の存在である。「「何か」が残存しているのではなく、現前の気配があるのだ。…略… それは空虚の密度のようなもの、沈黙のつぶやきのようなものである。何もない、けれどなにがしかの存在が力の場のようにしてある」。私が私でなくなってもそのような存在の場として存在し続けなければならない、それを私たちは「〈ある〉がふっと触れること」において気付かされる。私たちの存在の根底には非人称の〈ある〉がある。それが恐怖だ。


引用はレヴィナス『実存から実存者へ』西谷修講談社学術文庫 p118-125 より。