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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

レヴィナスの努力あるいは疲労における遺棄、断罪について

レヴィナスの『実存から実存者へ』で気になった箇所。レヴィナスは努力あるいは疲労・労苦について以下のように述べる。

「自分の務めの上に身を屈めて労苦する人間の本性のうちには、遺棄が、見捨てられた者の境涯がある。まったく自由になされるとしても、努力の裏にはある種の断罪がある。」(p53)

遺棄、見捨てられた者、断罪……

努力する=疲労することはある種の「孤独」であるという。

「手は、持ち上げている重みを放しはしないが、自分自身へとうち棄てられているようで、頼るものは自分しかない。自家発生の遺棄状態。それは、世界から取り残されもはやその歩みにつき従うことのできない者の孤独ではなく、言ってみれば、もはや自己に従わず、自己から切り離されて――〈自我(moi)〉が自己(soi)から脱臼を起こして――瞬間のなかで自己に重なることができないままなお永遠に瞬間に絡めとられている、そんな一存在の孤独なのだ。」(p60)

努力における遺棄とは、「自家発生の遺棄状態」、つまり、自分とその周りの世界との関連においてではなく、自分だけが問題となっている遺棄状態。自分が2つに分かれ、それが重なることができないがための孤独。自分が自分となることができないがための孤独。

これは疲労において特徴的な「くい違い」あるいは「弛緩」である。

疲労にともなう無気力はきわめて特徴的である。この状態は、ものに従事できなくなること、あたかも手が摑んでいるものを徐々に放してしまい、なお摑んでいるその瞬間に放しているように、存在が自分の執着しているものと不断にますますくい違ってゆくことである。疲労はこの弛緩の原因であるという以上に、この弛緩そのものなのだ。」(p51-52)

疲労とは、この「くい違い」=「弛緩」である。自分の執着しているものとのくい違い、執着しながらも放してしまうというこの弛緩。

レヴィナスは努力と疲労・労苦をほぼ同一視しながら次のように言う。

「努力は、疲労であり労苦だ。疲労は努力の随伴現象のようにしてそこに際立つのではない。ある意味で努力が湧き立つのは疲労からであり、そして努力は疲労の上に崩れ落ちるのだ。」(p53)

努力が湧き立つのは疲労からである、しかし、努力は疲労の上に崩れ落ちる。

さて、くい違いや弛緩は「遅延」とも言い変えられている。

疲労は自己と現在とに対する遅延を刻印している。」(p54)

自己と現在とに対する遅れ、これが疲労である。遅れているならば、追いつかなければならない。くい違っているならば、ぴったり重ね合わせなければならない。だから努力がいるのだ。「努力が湧き立つのは疲労から」というのはそういう意味だ。そして、遅れに追いつくこと、くい違っていたものをぴったり重ね合わせること、それが「瞬間」と呼ばれる。「努力とは瞬間の成就そのものなのである」(p58)。
(p53)

しかし、人間の努力には終わりがない。「努力は不可避の現在としての瞬間として格闘しており、そこに永久に関わり合っている」(p58)。

このことは先の「断罪」の意味にも通じてくる。「努力がうちに帯びている断罪の意味、努力をやむない務めへと繋ぎとめる根拠は、努力と瞬間の関係が見出されるときに明らかになる」(p55)。

レヴィナスは、魔術師が杖の一振りによってことをなすことと対比して、「人間の労働と努力はそれとは反対に、次第にできあがる業を一歩一歩たどるその仕方なのだ」(p56)と言う。

人間は、「自己と現在とに対する遅延」に追いつくという努力を一歩一歩し続けなければならない。

レヴィナスは、「行動」「行為」という用語を使って次のように言う。

「行動するとは、現在を引き受けることだ。そう言ったからといって、現在が現勢的なものだということを繰り返すことにはならない。現在とは、実存の無名のざわめきのなかでこの実存と格闘し、それと結ばれ、それを引き受ける、ひとつの主体の出現だということである。行為とはこの引き受けのことなのだ。そのために行為は本質的に従属であり隷従であるが、また一方、実存者、つまり存在するだれかの最初の表明あるいは形成でもあるのだ。なぜなら、現在における疲労の遅延が、関係の分節される距離を与えるからだ。つまり現在は、現在を担いとることによって構成されるということだ。
 努力はそれゆえ、瞬間を不可避の現在として引き受けるからこそ断罪なのである。努力はあの永遠に向かって開かれているが、その永遠から身を解き放つことの不可能性が努力なのだ。努力は瞬間をくまなく引き受け、瞬間のなかで永遠の真摯さに突き当たるから断罪なのである。」(p58-59)

現在は、人間としての自分が存在しているかぎり、不可避である。というよりむしろ、人間が存在すること、ひとつの主体が出現することが、現在を絶えず成立させているのだ。「実存の無名のざわめき」というある意味なにもない状態から、つまり実存者(≒存在者)にまだなっていない実存(≒存在)「そのもの」から、ひとつの主体が出現する、これが現在だ。「現在とは……ひとつの主体の出現」である。この「主体の出現」が、疲労において遅れていたところに追いつくという努力の瞬間である。

努力が断罪なのは、努力が永遠に終わらないからである。人間は存在しているかぎり永遠に疲れ続けなければならないからである。そして、永遠に疲れ続けなければならないのは、存在することそれ自体に人間は疲れるからである。

「疲れるとは、存在することに疲れることだ。どんな解釈も差しおいて、披露の具体的な十全性によってそうなのだ。疲労の単純さ、その単一性、その暗さにおいて、疲労は実存者によって実存することにもたらされる遅延のようなものである。そしてこの遅延が現在を構成する。実存のなかのこの距たりのおかげで、実存は一個の実存者と実存そのものとの関係となる。疲労とは、実存のなかでの一実存者の浮上なのだ。逆に言えば、自分自身に遅れている現在という、それ自体ほとんど矛盾したこの契機は、疲労以外のものではありえないだろう。疲労は現在に伴っているのではなく、疲労が現在を仕上げる。この遅延が疲労なのだ。」(p61)

人間はつねに自分自身に遅れている。つねに遺棄されている。だからつねに努力しなければならない。実存するためにはそうなのである。

だから、人間にとって休息さえも行為である。

「実存者はたとえ無活動のときでさえも、行為のうちにある、つまり現勢態でなければならない。この無活動の活動というのは逆説ではない。それは土の上に身を置くという行為そのものであり、休息である。休息が純粋な否定ではなく、維持のための緊張そのものであり、〈ここ〉の成就であるとするならば、だ。」(p62)


引用は、レヴィナス『実存から実存者へ』西谷修講談社学術文庫 p51-62 より