哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

森の中を

「理性がわたしに判断の非決定を命じている間も、行為においては非決定のままでとどまることのないよう、そしてその時からもやはりできるかぎり幸福に生きられるように、当座に備えて、一つの道徳を定めた。それは三つ四つの格率からなるだけだが、ぜひ伝えておきたい」

デカルトは、自分の思想を作り直している間に従うべき道徳、つまり、自分の思想の真実性が定まっていない間に従うべき道徳を示した。

その格率の二つ目が以下である。

「自分の行動において、できるかぎり確固として果断であり、どんなに疑わしい意見でも、一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うことだった。この点でわたしは、どこかの森のなかで道に迷った旅人にならった。旅人は、あちらに行き、こちらに行きして、ぐるぐるさまよい歩いてはならないし、まして一ヵ所にとどまっていてもいけない。いつも同じ方角に向かってできるだけまっすぐ歩き、たとえ最初おそらくただ偶然にこの方角を選ぼうと決めたとしても、たいした理由もなしにその方向を変えてはならない。というのは、このやり方で、望むところへ正確には行き着かなくても、とにかく最後にはどこかへ行き着くだろうし、そのほうが森の中にいるよりはたぶんましだろうからだ。同様に、実生活の行動はしばしば一刻の猶予も許さないのだから、次のことはきわめて確かな真理である。どれがもっとも真なる意見が見分ける能力がわれわれにないときは、もっとも蓋然性の高い意見に従うべきだということ。しかも、われわれがどの意見にいっそう高い蓋然性を認めるべきかわからないときも、どれかに決め、一度決めたあとはその意見を、実践に関わるかぎり、もはや疑わしいものとしてでなく、きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない。われわれにそれを決めさせた理由がそうであるからだ。そしてこれ以来わたしはこの格率によって、あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち、良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安のすべてから、解放されたのである」

これには励まされるものがある。

「たいした理由もなしに」自分の考えを変えようとしてしまうことがある。誰かに自分の意見を批判された時は、特にそうだ。その批判がもっともだと思えた時だけでなく、「誰かが僕の考えに反対している」「誰かが僕の考えに怒っている」「誰かが僕の考えを馬鹿にしている」などと感じただけで、意見を変えようとしてしまうことがある。そんなことをしていたら、僕はどこにもたどりつけない(とデカルトは言ってくれている)。
どこにたどりついてもいい、のだ。「森の中にいるよりはたぶんまし」である(ちなみに「まし」はイタリックになっている)。たどりついた場所がひどいところなら、そこからまた歩き始めればいい。だから、今「この方向がいい」と思うなら、そう思わなくなるまでは、どんどんその方向に進んでいっていいのだ。そう思うと、嬉しい気持ちになる。森の中を、草や土を踏みながら、むしゃりむしゃりと、一心に歩くのを思い浮かべると、楽しくなってくる。






引用は、デカルト方法序説』谷川多佳子訳 岩波文庫 より。