哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

地震とか台風とか

自殺のニュースなどを見ると、あぁ、背負っていたものを放り出せなかったんだな、背負っていて苦しんでいたもの放り出せなかったんだな、無責任に放り出せれば良かったのにな、と、これまでは思っていた。

でも、最近、ちょっと思うことが変わった。

放り出すことができるためには、放り出すものが「何なのか」が分かっていなければならない。

苦しいものを放り出すには、自分が「何に」苦しんでいるのかが分かっていなければならない。


死ぬほどの苦しみにおいては、そんなことは分からないのかもしれない。


あるいは、分かる分からない以前に、それは「もの」ではないのかもしれない。「何なのか」が分かるような「もの」ではないのかもしれない。背負うとか背負わないとか放り出すとか放り出せないとか、そういう次元の話ではないのかもしれない。

自分でコントロールすることが可能でありうるようなものではない、それは、地震とか台風とかに似ているのか、そういう、否が応でも巻き込まれてしまわざるをえないような、そういうものなのか。死ぬほどの苦しみとは。


なんか、最近、そんなふうに思う。