傷つくことができるようになる
ということって、あるのかなー、と思った。
傷つくようになる、というのが、一種の「成長」である場合があるのかなー、って。
傷つかない、というのが、心を閉じる、ということによるとすれば、
傷つく、というのは、心を開いたからこそ可能になる。
心を開く、というのが一種の「成長」だとすれば、傷つくようになる、というのも一種の「成長」である。
……
心を開いて、自分という柔らかい何かを外側にさらすこと。
……
傷つく。
痛い。
つらい。
苦しい。
そう感じることができるようになるのは、自分が生きること、つまり、自分が、他者の中で、世界の中で生きること、を始めたからなのかもしれない。
他者の中で、世界の中で、心を開いて生きること。傷つくことがありうる生き方。それを始めたのかもしれない。
他者に触れず、世界に触れず、一人でいれば傷つかない。
一人でいることをやめたら傷つくようになる。
……
傷つくことは苦しいことだ。
傷つくことから逃げたいと思うのは当たり前のことだ。
だから、心を閉ざしたいのは、当たり前だ。
傷つくことを受け入れるには、きっと、頼れる他人が必要だ。
一人というのはつらいものだ。
一人で傷つくというのはつらいものだ。
一人で傷つくことのできる人はいない。
……
……
……
この記事を書いた主な動機は、僕が最近自己否定をしてしまう経験をして、傷ついて苦しいと感じることがあったので、その経験に肯定的価値(=傷つくことができるのは「成長」したから)を付与することによって傷つきの苦しみを少しでも減らしたい、というところにあると思う。
その動機で最初の部分を書き、それ以降は、最初の部分を書いたことに伴って思い浮かんだことを書いた。