哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

神の愛

神父「神は愛である」
男「その意味を教えてくれ。教えて、ください」
神父「あなたはこれまで、誰かを心底憎んだことがありますか。その人たちのために、心の底から祈れますか」
男「できません」
神父「それでいいのです。人間の心は弱いものです。憎むべき敵のために祈るなんて、できるものじゃない。でも、神の力にすがれば、それができるのです。許されざる者を許し、そして愛する、それが、神の愛です」
(映画『嫌われ松子の一生』の一場面)

若干、誘導的というか、「宗教勧誘」的な胡散臭さも感じる場面だが(意図的かもしれない)、簡潔に神の愛を説明できている気がする。

愛することは、
人間にはできない。
神にはできる。
人間も、神の力にすがればできる(と言ってもそれは、人間「が」愛するというよりも、人間「を通じて」神が愛する、ということだと思うが)。

人間が神にすがることは、
人間が己を神にまかせること、
人間が自ら己をコントロールすることを諦めること、
人間が己を捨てること、
己を無力な存在であると認めること、

、、、

神がいるかどうかは置いておくとして、
このように自分の無力さを認めるということによって、それまで信じていた「自分の力」とは別種の力が湧いてくる、ということはあると思う。

この、「別種の力」、、、

神の力は
自分の力ではない
≒個人の力ではない
≒一人の力ではない

と仮に考えてみるなら、

神の力は、
人と人との連帯において生じる力と親和性がありそう??