哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

正当化、演劇、自分

最近、演劇をやってます。
演じる人です。

「どうして演劇をやろうと思ったの?」
と、ときどき訊かれます。

「発散したかったから」
「大声を出したかったから」
「セリフという(普段の自分が言わない)ものを言ってみたかったから」
みたいなことを答えてます。

一言でいうと、
「とにかく「出したい」から」
とでもなりましょうか。

「何を?」
かというと、
「自分を」
ということにでもなりましょうか。


普段は、自分を抑えてますわね。
言い換えると、
自分を型に嵌めてます。

抑えてるな〜
型に嵌めてるな〜
なんか息苦しいな〜
と思ってたんでしょうね。
だから演劇をやろうと思ったんでしょう。


外的な抑圧は、ある意味、まだいいんですよね。たぶん。
社会規範、ルール、マナー、決まり、、、
映画館で大声を出さないとか、
電車内で電話をしないとか、
締め切りはいついつだとか、、、
自分の「外」に存在する、ということを分かっているものなら、いい。
「それは自分自身とは別のものだ」と分かっているものなら、いい。
それに従うかどうかを自分で決められるから。
従うにしても従わないにしても、自分の責任でそれを選べるから。


でも、「これが自分自身だ」と思っているというかたちで、自分を抑圧していることもあって、その時は知らず知らずのうちに息苦しさを感じている。
「〇〇である」ということ(存在)と、
「〇〇でなければならない」ということ(規範)が、
区別できなくなっているとき、いつの間にか自分が窮屈になっている。

「私は明るい=明るくなければならない」
「私は仕事ができる=仕事ができなければならない」
「私はお茶目である=お茶目でなければならない」
「私は傍若無人だ=傍若無人でなければならない」
「私は暗い=暗くなければならない」


なぜこうなるのかというと。
それを昔から周り(外)から強制されてきたという過程はあるとは思うけど、でも、それだけでは必ずしも息苦しくならないだろう(単に「苦しい」とか「疲れた」とかはあるかもしれないけど)。それが自分の「外」にある規範であるということが分かっていれば。

では、なぜ息苦しくなるのかというと。

例えば、岸田秀は、「正当化」と言っていた。
(以下、岸田秀の「正当化」を手掛かりにして息苦しさについて考えた)

例えば、表面的には子供のことを愛しているような行動を取るが、実際は子供を愛しておらずただ子供を飼いならして自分の都合のいいように使おうと考えている(だから時々「ボロ」が出て、知らず知らずの内に子供に酷いことをしてしまっている)親がいるとする。
そういう場合、子供は、自分は親に愛されていないと認めてしまえば自分を保っていられないから、自分は親に愛されているのだと思い込もうとするが親に愛されていないことを心のどこかでは知っているから、常に不安な状態にいることになる。
だから、いつも、自分が親に愛されているということを「確認」したくなる。
親に愛されていると思い込むためには、親と(表面的には)仲良くできていなければならない。子供を愛していない親と(表面的に)仲良くあるためには、親の求める子供でいなければならない。
例えば、親が子供に「献身」を求めている場合、子供が親に「献身」している間はその関係は良好に保たれ(安定し)、子供は、自分は親に愛されている、と思い込むことができる。

しかし、自分は親に愛されていないこともその子供は知っている。
だから、絶えず「献身」をしつづけなければならない。そうすることで、親と自分との良好な関係(幻想)を確認しつづけなければならない。
そのようにして、子供は、あれでよかったのだ、あれ(良好な関係)が実際のもの、本当のものだったのだ、と「正当化」しつづける。「献身」をしつづけることで、自分と親との関係を「正当化」しつづける。

そうして彼は、いつしか、「自分は献身的な人間である」と思い込むようになる。
親との関係を正当化するために献身的「でなければならない」だけだったのに、それが、私は「献身的である」というふうに内面化される。
まあ、そうした方が、献身をつづけやすいですよね。「自分は献身的なのだ」ということにした方が、献身的であろうとするにあたって余計な葛藤がなくなりますよね。


息苦しさはここからきている。
「でなければならない」(外的規範)が、
「である」(自分自身)と同一視されることから。

単に「でなければならない」と言われて、それに従うだけなら、それはイヤだろうしうんざりもするだろうが、それは単純な、ストレートな不快感でしかないだろう。

「でなければならない」を「である」と同一視した場合、表面的な意識としてはそれを「自分がやりたいから」やっていると思っているのだが、心のどこかでは「強制されている」とも感じている。
矛盾する2つの状態が共存し、ぶつかり合っているということが、息苦しさを生む。

そしてそれは、当然だが(「「私は」献身的な人間」なのだから)、親との関係「以外」にも波及してゆく。
あらゆる人間関係において、親と自分との関係を再現しようとする。そうすることで、親と自分との関係を確認し、正当化しようとする。
お分かりのように、正当化しようとしつづけるのは、それが正当「でない」からである。親と自分との関係は良好「ではない」からである。その子供は親に愛されて「いなかった」からである。

このこと(正当「でない」、良好「ではない」、愛されて「いなかった」こと)を認めないかぎり、正当化はつづくでしょう。


でも、それを認めるのは、自分ではなかなか難しい。
自分では、「これが自分だ」と思っているのであり、だから、自分にとっては「これしかない」ということになっている。


しかし、息苦しさはある。
でも、自分はこれなのだし、このあり方に慣れてしまっているし、ある種の居心地のよさもあるし、いつもと違うことをするのも怖いし、、、
これまでの自分とは違うものを「強制」してくれるような何かはないだろうか、、、

……

そんな感じで、僕は演劇をやってみたいと思ったのかもしれません。
演劇は、自分ではない役をやることを「強制」されるからね。自分ではない役をやるからこそ演技なのであり、自分ではない役を上手くやればやるほど褒められる笑
だから、ある意味、「安心」して自分じゃなくなれる。
普段、いつもの自分がやらなそうなことをやるのは、何だか気恥ずかしかったりして、やりたくても躊躇してしまう。他人から変に思われるんじゃないかとか思っちゃう。
でも、演劇中なら、どれだけいつもと違う自分になっても、それは「そういうもの」だから、いつもの自分と違うということについて変に思われる心配はない。そういう意味で演劇は「安心」できる。安心して変なものを出せる。安心して自分ではないものを出せる。

で、それは、自分「ではないもの」では、実はないんだよね……。



……



「正当化」の話はどうなるのか、
演劇を通して「正当化」は辞められそうなのか、

それは、ちょっとまだ分かんない笑
っていうかもう書くの疲れた笑