『遠くの空に消えた』感想
行定勲監督・脚本の映画『遠くの空に消えた』は、死者に捧げられる作品であると言える。
なぜなら、この映画が徹底的に「無駄」なことを描いているからである。
反対運動をどんなに頑張っても結局飛行場は建設されるし、
望遠鏡で流れ星を取れるわけはないし、
トーマはいくら待っても帰ってこないし、
結婚式を抜け出しても好きな人と結ばれることはないし、
あのサークルにUFOは降り立たない。
労力をかけても、何も達成されない。
奇跡は起きない。
だからこそ、そこでかけられた労力は、死者に向けられたものになりうるのだ。
例えば、生者にとってお墓参りは、無駄である。
お墓参りなんてしなくても、僕らは困らないように思える。
お墓に供えるお酒なんて、僕らが飲めばいいじゃないか。死者は実際、飲まないんだから。もったいない。
それでも、僕らはお墓参りをする。
………
「遊び」というのも無駄なものである。
遊んだところで何かが得られるわけではない。
生存するにあたってのコストパフォーマンスを考えるなら、遊びという、何も得られずに体力を消耗するだけの振る舞いは避けられるべきだ。
しかし、僕たちは遊ぶ。
だたただ、楽しくて、遊ぶ。
遊ぶことは、もしかするとある面では、死者に向けられたものなのかもしれない。
この映画では、「無駄」な行いのほとんどが、どこかほんのりと「遊び」の匂いを発しているように見える。
………
「奇跡を起こそう」と言って、麦畑でみんなで作ったあのミステリーサークル。すごいけど、しょぼい、僕はそう思った。
でも、それがいい。
これはそういう映画です。