哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

傷つけないように

 世界を、他者を傷つけないよう頑張ることで精一杯の人って、いるのかもな、と思った。

 贈与することができるのは贈与されたことのある人だけだと仮定すると、世界から傷つけられてばかりいる(と感じている)人が、世界に何かを与えることはできない。愛を与えることはできない。
 むしろ、傷つけられたことの埋め合わせとして世界を傷つけ返したいと感じる可能性が高いと思われる。
 だから、世界を傷つけないように頑張っているだけで、その人は「偉い」のである。
 それなのに、世界の側は、それ以上を要求してくる(それはたいてい愛の要求ではない。愛は世界を破壊するものだから)。すでに限界ギリギリまで頑張っているのに、そこで生じる小さな瑕疵を咎められたり(限界ギリギリでやっているのだからちょっとした失敗はどうしたって生じてしまう)、世界への「貢献」をより多く求められたりする。
 彼らはそこで、「無理だ」「私には無理だ」と思う。そういうことを要求してくる人たちが嫌になる。……殺したいと思う。……でも、我慢する。世界への「貢献」はできない。自らのあり方の「改善」や「向上」はできない。でも、他者を殺さないようにだけは、なんとか頑張る。これだけで、十分、彼らは「偉い」。こういう彼らのあり方がすでに、贈与と呼べるかもしれない。しかも、彼らの境遇からすれば、すでに「過剰」な贈与、かもしれない。

 もちろん、殺してはいけない、傷つけてはいけない、というわけではないのだ。
 しかし、殺したところで彼らは救われない。彼らが孤独であることは変わらない。そこに救いはない。

 自殺することも、彼らはおそらく考えるだろう。自殺は、他者を殺さないための、ギリギリの「倫理的選択」とでも呼べるものである。
 僕は、自殺するか他者を殺すかなら、他者を殺してくれ、と思う。その他者に僕が含まれるとしても(当然含まれうるだろう)。
 世界を傷つけないように、他者を殺さないように頑張っている彼らは「偉い」と書いたけれど、僕は、彼らに偉くあってほしいと全く思わない(思うとしたらそれは、彼らの「他者」として自らを置く僕らのエゴ、殺されたくない僕らのエゴである)。ギリギリで生きているその姿を、僕は尊敬する。ある種の「貴さ」を感じる。しかし、彼らのそのあり方が悲しいものであることに変わりはない。

……と、青山真治監督『ユリイカ』の登場人物たちの、世界とギリギリで関わり続ける姿に触れて、思った。