哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

映画『リバーズ・エッジ』感想

【ネタバレあります】




……
……
……




 映画『リバーズ・エッジ』を観た。原作と比較しながら、感想を書く。

 原作では「出口の無さ」が表れている。
 対して、映画版には出口がある。

 原作では、意外と、死が遠い。
 死体が出てきたり、田島カンナが焼け死んだりするけど、生きている人たちにとって、それらは遠い。死体や死人は、生者たちの友達にはなれるけど、なぜか遠い。
 生者たちは、「自分も死の側にいくかもしれない」とは、意外と、思っていないのかもしれない。
 それは、彼ら(特に、山田くんと吉川こずえ)にとって死が「絶対的な外部」ではないからだ。彼らは死者と自分を同類のように思っている部分がある。そういう意味では、彼らにとって死は近い。でも、だからこそ、「真の」死からは遠い。

 おそらく、その「外部の無さ」が、「出口の無さ」(=救われなさ)の根本にある。


 映画版には「外部」がある。
 映画版には、原作にはない「インタビュー映像」が差し込まれている。これが「外部」の役割を果たしている。
 映画を観ながら、途中まで、このインタビュー映像をどう位置づけていいのか分からなかった。
 でも、田島カンナのインタビュー映像が映った時、分かった気がした。その映像は、田島カンナが焼け死んだシーンの直後に来た。死んだはずの田島カンナがまた画面に映る。そこから、このインタビューは「死者」の側にあるものなのではないか、と思った。あれは「死者」としての登場人物たちの言葉なのではないか、と。
 生者としての自分たちには知られえない、自分たちの言葉。自分の「外部」にある自分の言葉。

 原作の登場人物たちは、「貪欲」なのだと思う(あるいは、貪欲さが強調されるような「描かれ方」がなされている)。生の場しか知らない、知りたくない。底にある穴に栓をして、なんとか落ちないように、落とさないように、自分をなんとか保とうとする。

 映画版の登場人物たちには、どこか、底が抜けている部分がある。
 ときおり彼らは笑顔を見せる(僕が一番印象に残った笑顔は、吉川こずえが「新しい死体が見つかった」と言って笑顔になるシーン)。映画版の笑顔は、素直である。ただ、嬉しい。ただ嬉しいということだけが伝わる、そういう笑顔だ。彼らが生きていく中ではいろいろなことがある、でも、嬉しい時にはただ嬉しい。その嬉しさは独立している。裏がない。原作では、笑顔の裏にいつも何か虚しさのようなものがある。原作には外部がないからである。常に内部にあるから、嬉しさも痛みもいつも同じところに同居しているのだ。映画版での笑顔は、外部に抜けている。だからそれだけで独立するのだ。だから、「本当に」嬉しそうなのだ。それは、ある意味で、「死者」としての笑顔である。これは特殊な事態ではない。本来、笑いと死とはそういうものである。死を受け入れる者しか真に笑うことはできない。死に怯えている者は笑えない。

……

 「短い永遠」という言葉が出てくる。この言葉の解釈が、原作と映画版では違う。
 原作では、出口のない、変わらない、平坦な日常をそれは表している。
 映画版では、それは、隣り合う死と生を表している。生のあとに死が来るのではなく、常にすでにそれらは隣り合っている、ということだ。
 映画版の最初には、田島カンナの死ぬシーンが置かれている(映画版では田島カンナの死のシーンは二度出てくる。先述した、田島カンナのインタビュー映像直前のものが二度目で、これは一度目だ)。映像の構成上、物語が始まるのは田島カンナの死のあとだ。そのシーンのあとに「〇〇日前」などというテロップが出ることはない。原作を読んでいない人は、最初のこの焼死という出来事がいつ起こったことなのか分からないまま続きを見ていくことになる。さらに、位置づけの難しいインタビュー映像が所々に挿まれる。それらの意味が、田島カンナのインタビュー映像が映った時に分かる。インタビューは「死者」の側にあると先ほど書いた。だとしたら、映画の構成から推測されるのは、あのインタビュー映像群は、映画の中では、最初に置かれた田島カンナの死から伸びる時間の中に位置づけられるのではないか、ということだ。田島カンナの死のシーンが最初に置かれた理由はここにある。
 つまり、映画の中には、2つの時間が同時並行して存在しているのだ。死者の時間と生者の時間である。
 生の「あと」に死が来る、と考えるなら、永遠はない。時間が「流れる」という意味で、それは永遠ではない。しかし、そこで原作では、「貪欲」さによって死が否認される(=死が生の側に引き入れられる)ことで、出口の無い永遠が成立する。
 それに対して映画版では、生と死を並行的に描くことで、時間の「流れる」という性質が弱まっている。「流れる」時間では「ない」かたちでの時間が示されている。「流れない」時間、つまり、それは「永遠」である。原作とは違って、死を否認せずに描かれる永遠である。その永遠を生きる彼ら(特に、山田くんと吉川こずえ)は、素直に笑うことができる。

 そして、映画版では、おそらく主人公(ハルナ)はそのどちらの永遠からもはみ出している。
 最初に田島カンナの死のシーンが置かれていると先ほど書いたが、それは筆者の嘘である。本当は、その前に、主人公のインタビューがあるのだ。だから、映画の構成上、主人公だけは、田島カンナから伸びる死の時間から外れていることになる。
 おそらくそれは、主人公が生と死を「統合」しうる存在として、「統合」を象徴するものとして描かれていることを意味する。死を否認して貪欲に生を生きるのでもなく、「絶対的な外部」としての死を隣に置いて生きるのでもなく、死と共に、死にながら、生きること。苦しみながら、苦しみを受け止めながら、生きること。死体を見たとき、嬉しそうな顔をするのでもなく、拒否するような態度をとるのでもなく、「よく分かんない」と言うこと。それは、自分のいるそこを常に感じながら、笑いながら、泣きながら、忘れながら、だたじっと、地に足をつけて立っていることだ。押し寄せてくるあらゆる波を受けて立っていること。ただじっと。やはり、それもまた、「短い永遠」と呼べるのかもしれない。

 出口がないこと、出口があること。
 救われること、救われないこと。
 流れること、流れないこと。
 そのどちらでもなく、また、そのどちらでもある。
 僕らのいる、その淵。
 『リバーズ・エッジ』。