僕は、「人に何かを言う時は、相手が分かりやすいように工夫すべきだ」という趣旨のことを言われたことがあります。
ある時、人からそう言われて、僕はこう言い返しました。
「いや、僕は言いたいことをいうだけだよ。相手が僕の言いたいことを理解するかどうかは僕には関係ない」
どういうことかというと。
僕は「相手が分かりやすいように工夫しなくていい」と「主張」したわけです。
ここにあるのは、「工夫すべき」と「工夫しなくていい」の対立です。
そう「すべきか否か」という対立。
つまり、「主張」の対立。あるいは、「意見」の対立。
僕は後悔しているんです。ちょっとだけ。
ああ、こう言えばよかったなぁ、と思ってる。
どう言えばよかったと思っているか。
「ツライんです」と、言えばよかった。
もう少し詳しく言うなら、
「工夫するのがツライんだ」
「工夫する体力や気力がないんだ」
「工夫しようと努力すると、心身の具合が悪くなるんだ」
と。
(まあ、その時の心身の具合によっては、こういうふうに詳しく表現することもできなかったりするけれど)
「ツライ」と言えればよかったな、と思う。
それを相手がどう受け取るかは相手次第だけれど、もしかしたら「意見」を「主張」するよりは何か伝わるものがあったかもな、それに、少なくとも自分にとってはよかったかもな、自分で自分のことをそう言えたなら少し自分を生きやすくさせてあげられたのかもな、と思う。
「意見」を「主張」し合うこと自体はもちろん悪いことではない。
でも、それだけじゃ上手くいかないこともある。
痛みや苦しみを伝えられたら、あるいは、悲しみや、嬉しさや、怒りや、、、そういう、「感覚」とか「感情」とかを、伝えられたら、、、そうできたらよかったな、と思うことが時々ある。
これはいろんなことについて言えると思う。
例えば、学校に行ったほうがいいのか行かなくてもいいのか、の前に、「学校に行くのがツラい」という「感覚」「感情」がある、とか。
そういうふうに「ツラい」と(もし口にするのが無理なら、文字にするとか、心の中に思い浮かべるとかだけでもいいけど)言うということは、自分を受け入れてあげることのひとつの仕方なんだと思う。
「ああ、ツライんだなぁ」と思ってあげること。
そこから始めたいなぁと思う。
自分を受け入れてあげることなしに、何をしても、何を頑張っても、何を成し遂げても、きっと心の底の方はいつまでも苦しいままだ。
自分を受け入れてあげさえしていれば、どんなに失敗しても、挫折しても、何も成し遂げられなくても、きっと大丈夫な気がする。
その都度、「ああ、ツラいね」「大変だね」「イヤだよね」「疲れちゃったよね」と自分に対して言ってあげることしかできないのかもしれないけど、それって、結構大きなことでもあるのではないか。
と、思ったのでした。