哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「自分の幸せは自分次第」?

僕は、「自分の幸せは完全に自分次第だ」などと主張する。

なんとなく、これは人に誤解を与える言い方である気がしていた、つまり、僕の考えていることとは別のことが伝わってしまっているような気がしていた(もちろん、正確に伝わっている場合もある気はする)。
自分でも、なんとなくしっくりこない言い方だなと感じる。


例えば、この主張に対する反論として、

「自分次第なところもあるけど、社会のあり方次第でかなり個人の幸せは制限されうる」というのが考えられる。

「個人の幸せは社会次第だ」ということである。


「幸せ」の定義はとりあえず置いておくとして、

僕はこのような反論に対して特に異議を唱えはしない。「そうだよな」と思う。

でも、「幸せは自分次第だ」という主張は、「幸せは社会次第だ」という主張とは相容れないように見える。

でも、どちらの主張も僕は受け入れられる感じがする。
なぜ、相容れないように見える2つの主張を僕は受け入れることができるのか。
これが僕の違和感である。




おそらく、僕は、「個人」も「社会」だと思っているのだ。

「社会の中に個人がいる」
「社会の影響を受けて個人が形成される」
ということではなく(と言っても、それを否定しているわけではない。そういう観点では見ていない、ということだ。)、
「個人=社会」である。


社会にはいろいろある。

人類すべてを含んだこの地球というのも社会だし、
国も社会、
州とか県とかも、
市町村も、
何らかの団体(会社とか町内会とかサークルとか何かのチームとか)も、
家族も、
友達関係も、
そして個人というものも、社会である。

……と僕は思っている。

僕は社会をどう定義しているのか。

「様々な作用の相互的な働き合いが、ある程度固定的な(しかし変化も常にしうる)パターンを持ち、それによって自らを維持しているもの」

といったところか。

こう定義するなら、「個人」も社会に入るだろう。

(いつか柄谷行人の『探求Ⅰ』『探求Ⅱ』の文章を引用したい)

……

そして、ある社会は別の社会から常に影響を受けている。また、影響を与えている。

あるいはまた、ある社会は、もっと大きな社会の一部である。

……

「不幸な社会を変えなければ個人は幸せになれない」。

そのとおりであると思う。

でも、その時、「どの」社会に焦点を当てるのか。

「不幸な社会を変えなければ個人は幸せになれない」。

これを言い換えれば、

「個人という社会よりも大きな(例えば「日本」という)社会を幸せにしなければ個人という社会も幸せになれない」

となろうか。

それが成り立つなら、

「日本という社会よりも大きな(例えば「地球にある国々」という)社会を幸せにしなければ日本という社会も幸せになれない」というのも成り立つ気がする。

……

僕の感覚では、例えば僕という個人が幸せになることは、僕という個人「だけ」が幸せになることを意味しない。僕が幸せになることは、僕を含むもっと大きな社会の一部が幸せになることである。つまり、僕が幸せになることは、僕の属する団体や、国や、この地球、世界、の幸せが増すことなのだ。大胆に言ってしまえば、僕が幸せになることは、世界が幸せになることなのだ。

というか、そういうふうに僕は幸せを定義したいということだ。
僕が幸せになることが世界全体が幸せになることでないなら、それは本当は僕の幸せではない。
そう僕は幸せを定義する。
というか、そう僕は心から感じる。

……

翻って、だから、僕は、僕自身「だけ」の幸せを求めていいのである。僕の幸せは世界全体の幸せだからである。

……

さて、
「自分の幸せは自分次第」。
これはどういうことなんだろう。

「幸せである」とは、
「幸せなパターンで生きる」ということだ。
と定義してみる。

そうすると、
「社会(=個人、国、地球……)が幸せになる」とは、
「社会のパターンが幸せでないパターンから幸せなパターンに変わる」ということだ。

僕に対する「個人の幸せは社会次第だ」という反論には、「個人」と「社会」を本質的に別物として分けている感じがある。つまり、僕の考えとは違って、「個人も社会だ」とは考えていない。
そして、個人よりも社会が「強い」という感じがある。
社会が強いから個人の幸せは社会次第だと感じられるのだ。
個人と社会を分ける場合、社会の方が「強い」のはたしかにそうかもしれない。

うーん。

でも、「個人も社会だ」と捉えたら、、、

「個人の幸せは社会次第だ」という主張には、
「個人を(直接)変えることはできないけど、社会なら変えられる」という前提がありそうだ(その前提がないなら人類は幸せにはなれないということになる!)。

社会なら変えられる、
且つ、
個人も社会だ、
としたら、
個人も変えられる、

という三段論法は可能だ。

が、、、

なぜ社会なら変えられる思うのだろう(僕は)。

たぶん、社会とは「様々な作用の相互的な働き合い」だと僕が思っているからだ。

「相互的な働き合い」。

「一方的」ではなく。

社会が変わることとして、
「国」が変わるのも、
「個人」が変わるのも、
変わり方は一緒だ。

どちらも、その社会における「相互的な働き合い」のパターンの変化である。

……

僕は、あまり、「誰が」変えるのか、という視点を重視しないのかもしれない。

それは、「自分の幸せは自分次第」と僕が言っているときですら、そうだ。
自分を「自分が」幸せにする、とは僕は思っていないのかもしれない。

「誰が」ということを重視するとき、「誰でないか」ということも暗に重視されている。
例えば、「他人に幸せにしてもらうのではなく自分で幸せになる」というように。

僕はそういう考え方はあまりしないのかもしれない。

僕の言う「自分次第」とは、自分「が」ということだ。
自分「で」ではない。

だから、
僕の言う「自分の幸せは自分次第」とは、
「自分の幸せとは自分が幸せになることだ」
ということかもしれない。

(これはトートロジーである。それだけのことを、なぜ僕は言いたいのか。まあ、忘れがちだからなのだろう。)

もちろん、「で」はいらないと言っているいるわけではなくて、「で」の観点では見ていない、ということに過ぎない。
だって、「で」をいらないと言ったら、どうやって社会は変わるの? ってことにならない? 僕らにはどうすることもできないの? って。だからそういうことを言いたいわけではない。

スマホの充電切れそうだから終わり。