岸政彦がエッセイの中で、若い頃の親友が飛田の遊郭に通っていたことを書いている。その話の中で、売春宿に対する自分の思いをこう記している。
「彼はここにしょっちゅう通っていた。私も何度も誘われたが、金を払って女とセックスすることが申し訳なくて、金を払わなかったら俺なんかとしたくないだろうと思うと、なにかとてつもなく申し訳ないことをしているような気がして、いまにいたるまで一度もそういうところに行ったことがないのだが[…略…]。」(岸政彦『図書室』新潮社 p127)
もし僕が金を払ってセックスするとしたら、そのことに僕は申し訳なさをさほど感じないと思う(まあそもそもそれは犯罪なのだけど)。むしろ、お金を払っているから大丈夫、セックスしても大丈夫、という感じがある。
岸はおそらく、金を払わないでするセックスを、基本的には、お互いがしたいと思ってするセックスと想定しているのだろう。
お金を払わないセックス
→お互いがしたいと思っている場合のセックス
→申し訳なくない
お金を払うセックス
→相手はしたくないと思っている場合のセックス
→申し訳ない
これが岸の感覚である。
僕の場合、おそらく、お金を払おうが払わまいが、相手(女)はセックスを「いやいや」しているという想定が基本にある。
だから、お金を払えばその「いやいやさ」は相殺されて申し訳なさが消えるが、お金を払わなければ「いやいやさ」がそのまま残るので申し訳なさも残る。
女がどんな時でもセックスを「いやいや」しているという想定は端的に間違っているわけだが、僕の頭の中にはそういう想定が張り付いている。
ここからひとつの仮説が可能だ。それは、僕がセックスをする時、相手が「いやいや」それをするということを、僕は自ら「望んでいる」、という仮説である。
考えてみると、たしかに、相手がセックスを「いやいや」している方が、そうでない場合よりも、僕としては「気が楽」であるように感じられる。
なぜか。
まだあまり分からない。
が、今のところひとつ思い浮かぶのは、「最初から」相手が「いやいや」やっているなら、僕の行為に、愛情とか技術とかその他諸々の「相手を満足させる要素」が欠けていたとしても、それが大きな問題とならずにセックスができるだろうと僕が思っている、ということだ。
逆に、相手が僕とセックスをしたいと思ってセックスをするならば、「相手を満足させる要素」が僕に欠けている場合、それはおそらく問題化する。
言い換えれば、「最初からいやいや」の場合、相手には僕に対する期待が最初からないけれど、相手が僕とセックスしたくてする場合は期待があるから、後者の場合、期待がある分、その期待に僕の行為が沿わなければ、僕の行為が問題化する可能性がある、つまり、文句を言われたり不快の態度を取られたりして僕が傷つくかもしれない。
それが、僕は怖いのだ。
(ひとつの仮説)
……
セックスに限らず、「自分の行為が相手の期待に沿わなければならない」というのは、基本的には神経症的な思い込みであると思う。
もちろん、他者と関わっている限り、その思い込みを完全に無くすのは無理だろうから、その思い込みが「ある」こと自体をことさら問題にする必要はない。
ただ、その思い込みが強すぎると、困ることが増えてくる。
はて、こういうとき、どうすればいいんだっけ。
(「どうすればいいんだっけ」と、あたかも昔は分かっていて今は忘れてしまったかように書いているが、昔だって分かってなかったはずだぞ、きみ)
……
まあ、「知ること」かな、やっぱり。
その思い込み(を持とうとする欲望)が生じる「構造」や、その「歴史」を。
……
書いてから気づいたけど、この文章の中で、「金」→「お金」と表記が変わっているのもちょっと気になる……
……
「女」→「相手」と書き換えてることについても考える必要あるだろうな。