哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

俯瞰せずに生きること

「人生は近すぎちゃ見えなくなる 一歩引いて見てごらん」

今日、あるラジオ番組を聴いていたら、「僕は僕を好きになる」という曲の歌詞の朗読が行われていた。

冒頭に置いたのは、その歌詞の一部で、朗読後のトークで触れられていた部分である。

これを聞きながら思ったのは、僕は、冒頭に置いた歌詞の言っているような「俯瞰」的なあり方に対して、あまり魅力を感じなくなったなあ、ということ。

もちろん、このような方法が、悩みや困難を抱えた時に有効である場合は多くある。僕も依然としてこの方法を取ることはある。

でも、昔ほどこのような俯瞰的あり方を重視しなくなった気がする。
そして、あえてそこから離れようとしている、という気がする。


自分の人生を俯瞰するということは、自分を二重化するということである。

「見る」自分と「見られる」自分に、である。

この二重化、果たして必要なのだろうか?

そう思うようになってきた。

つまり、「見る」自分など必要だろうか? ということ。自分を「見る」ことなど必要だろうか? ということである。

もう少し進めよう。

すなわち、「私が」私を見る必要があるのか? ということである。


なぜ必要でないと思うのか。

それは、私はまず「生きている」からである。

私にとって一番重要なのは、私が「生きている」ことである。「存在している」こと、と言い換えてもいい。

「見る」とは、その「生きている」私から離れて見る、ということである(目はその場所にある限りおのれ自身を見ることができない)。

それは、一旦、私が「私を生きるのをやめて」見る、ということである。「生きている私」から「離れる」のだから。


その「生きるのを一旦やめる」感じが、僕に、俯瞰的あり方から遠ざかる欲望を生じさせる。

僕は生きていたいのである。
生きるだけでいい、と思うのである。
それを見ている「ひま」などない、と思うのである。



とは言え、「生きている」だけでは心と身体に「余裕」がなくなる、というのも思う。「私が生きている」というところにだけ存在の強さを置くのは、少々窮屈な感じがする。

世界はもっと広いのである。
世界は私だけで構成されているのではない。


しかし、やはり、僕は、「私が」私を「見る」必要はない、と思う。

なぜか。

私が「見る」までもなく私はこの世界に生きているからである。
「見る」私に関係なく、勝手に私はこの世界に生きているからである。
いつも、すでに私はこの世界に生きている。
いつも、すでに私はこの世界に存在している。

「見る」ことよりも、「この世界に存在している」ことの方が、先にある。
そして、「見る」ということによって果たされると思われている機能が、「この世界に存在する」ということによってすでに果たされているのではないか、と思うのだ。

どういうことか。

まず、私は私を生きているという次元がある。この次元では「私」だけが問題である。「私」しか存在しない。
そして、それとは別に、私が「この世界に」存在しているという次元がある。この次元にはあらゆるものがある。「私」以外にもあらゆるものがある。

この2つ目の次元があるということが、すでに「俯瞰」によって果たされると考えられている機能を果たしている。つまり、「余裕の創出」や「窮屈さの緩和」を、である。

この世界には私以外にも様々なものが存在している!
まさに、「世界は広い」のである。

その「広さ」が、そのまま、世界の根源的な俯瞰性である。


つまり、私を「私が」見るまでもなく、すでに私のことを「世界が」見てくれている、ということである。
ここでの「世界が見てくれている」という時の「見る」は、「私が見る」という時の「見る」とは違う。

なぜなら、世界とは「すべて」だからである。

対して、「私」は世界の中の「一部」であり、それゆえ「局所的」である。つまり、「一つの場所」にいることしかできない。「ここ」にいる時「あそこ」にはいられない。そのような存在者が何かを「見る」時、必然的に、その存在者が「見る」のはその存在者とは「別」のものである。それゆえ「私が見る」時、「見られる」対象は、私とは「別」のものであることしかできない。だからこそ、「私が私を見る」時、私は私から「離れ」なければならなかった。

世界が「見る」ときの見方はそれとは全く異なっている。世界とは「すべて」であるのだから、世界が何かを「見る」としても、世界がどこかから「離れる」必要はない。というか、「離れる」ことは「できない」。世界は、そのままそこにありながら、すべてを見ることができるのである。というか、そのように見ることしかできないのである。「ここ」から「あそこ」を見るのではなく、「ここ」で「ここ」を見る。つまり、「ここ」“が”「ここ」を見る。「見る」ものと「見られる」ものが一致している。つまり、「見る」“こと”と「見られる」”こと”が一致している。「見る=見られる」。「見る」こと“が”そのまま「見られる」ことなのである。以上のような仕方での、「この世界が見る=見られる」こと、それは、「この世界が存在する」ことと限りなく近い事態であると言えるかもしれない。

心理的抵抗がなければ、「世界が見てくれている」を、「神が見てくれている」と言い換えてもいいだろう。)



以上に述べた、

①私が生きている・存在していること
②私がこの世界に生きている・存在していること

この2点から、僕は、自分で自分を「俯瞰」することの重要性を感じなくなってきたと思う。

逆に言えば、このような思考を経なければ「俯瞰」の重要性を感じ続けてしまうほどに、僕の中の「俯瞰」への欲望が強かったということでもあろう。



僕の「俯瞰」への欲望は、「不安」から来ているような気がする。
自分で自分を「見張って」いないと、「監視」していないと、不安なのだ。
自分が変なことをしていないか、自分が許されないことをしていないか、自分が間違ったことをしていないか、いつも「見て」いないと不安なのだ。
僕は、余裕の創出や窮屈さの緩和のために自分で自分を見ていたわけではなかった。
自分を「律する」ために、自分を見ていた。

……

そんなことはしなくていいんだよ、と僕は僕に言ってあげよう。
変でも、許されなくても、間違っていても、いいんだよ、と。
大事なのは、あなたが生きていること、それだけなんだよ、と。
世界は、いつでもそれをゆるしてくれているんだよ、と。


……

……

……


この記事を書くにあたって僕に影響を与えたであろう本をとりあえずいま思い浮かぶものだけ上げておく。

中島隆博『『荘子』 鶏となって時を告げよ』岩波書店
千葉雅也『意味がない無意味』河出書房新社

そして、

スピノザ『エチカ』