十月十日の進化論という映画の中にこんなシーンがある。
妊娠した主人公は、「一人で子供を育てる」と自分の母に言う。母は反対するが、主人公は「私のやることを認めてよ」と言う。
母は言う。
「あんた甘えてんやわ。一人やったらなんもできへんくせに。最後は誰かが助けてくれる思おてんちゃう? もうおばあちゃんいてへんで。誰もあんたの味方せえへんで!」
そして主人公。
「んなん分かってるわ」
……
僕は、最後は誰かが助けてくれる、と思っている。
……
もし誰も僕を助けてくれないとしたら、僕を助けたいという気持ちを誰も持っていないということである。そしてそれはおそらく、僕を助けようとするほどには、僕の存在価値を誰も感じていないということである(存在価値を全く感じていないか、感じてはいるけれど自分のことで精一杯で僕を助けることにまで手が回らないか、など、いくつかの場合は考えられうる)。
そして、誰も助けてくれず、僕が自分で自分を助けることもできないとしたら、その時は、「終わり」である。
ただ単に、そういうことである。そこには良いも悪いもない。それは、僕を含めたすべての人の、それぞれの置かれた条件における、それぞれの自分の選択である。それだけのことである。
……
誰かは助けてくれる、と僕は確信している。親とか親戚だけでなく、友人や職場の人たち、あるいは近所に住んでいる人など、僕のことを目にした人のうちの誰かが、僕を助けるだろう、と思っている。僕が、自分を他人に対して閉ざしさえしなければ。僕が自分でどこかに隠れたりしなければ。
……
引用した先の会話内容に対し、「何を馬鹿なこと言ってんだ」と思う人と、「その通りだ」と思う人と、どちらがどのくらい多いのか、僕には分からない。
僕の確信している、「最後は誰かが助けてくれる」という思い込みが、どれほど現実に即しているものなのか、僕には分からない。
どちらが不幸なのだろう。「助けてくれる」と思っている場合と、「助けてくれない」と思っている場合と。どちらが幸せか。どちらが楽しいか。あるいは、どちらが他人を幸せにするか。
死にそうになったらきっと、死にたくないとは思う気がする。
でも、死ぬときは死ぬさ、とも思う。
……
でもやっぱり、「誰も助けてくれない」と思う時もある。精神状態が悪くなると、「僕は一人だ、誰からも嫌われている」と本気で思う時がある。
……
そうか。だとしたら、僕の場合、「誰かが助けてくれる」と思っている時は精神状態が良い時で、「誰も助けてくれない」と思っている時は精神状態が悪い時、ということになると言える。
つまり、「助けてくれる」「助けてくれない」、僕がどちらの思い込みを持っているかが僕の精神状態を判定する指標である、とは言える。
そして、どちらの思い込みを持っているかが僕の精神状態に影響を与えている、とまでは今のところ言えない。
……
〇〇したから△△になる、のような、事象を因果的に捉える見方。
△△は〇〇の表れである、のような、事象を表現的に捉える見方。
「幸せになるには〇〇すればいい」「✕✕するから不幸になる」、こういう考えは、前者の見方から出やすい。
「△△してるってことは幸せなんだね」「□□してるということは不幸なのかも」、こういう考えは、後者の見方から出やすい。
……
でも、僕らは何かを分かる必要なんてあるんだろうか。
僕らは生きているのに。
生きているのに、何かを分かる必要なんてあるんだろうか。
ただ生きていればいいのではないか。幸せでも、不幸せでも。
……
とは言え、人間は、というか、僕は、欲深い。
強欲。
と言っても、それも含めて、生きている。
何も気にせず、ただ生きればいいのだと思う。
……
そういえば、1ヶ月くらい前、仕事を探しており、ある会社で面接をしてくれた人から「谷翔はきっと考えない方がいいよ」と言われた。
僕もそう思うんです。