レヴィナスは、生きること(=実存すること)をリアルなこととして見ている。あるいは、生き続けることを。
レヴィナスは、「飢えと渇き」をリアルなものとして見ている。
お腹が空いて食べて生きていくことを、人間の基盤として見ている。
世界内では人間は生きる「ために」行為する、とハイデガーが言っている、とレヴィナスは解釈する。
レヴィナスはそれに反論する。
「私たちは呼吸するために呼吸し、飲みかつ食らうために飲み食いし、雨を避けるために雨宿りし、好奇心を満足させるために学び、散歩するために散歩する。それらすべては生きるためにあるのではない。そのすべてが生きることなのだ。」(『実存から実存者へ』「生きるために」の「ために」がイタリック体になっている)
「世界内に存在すること、それはまさしく、欲望をそそるものへと真摯に向かいそれを自分にとってのものとして捉えるために、実存することという本能の最後のしがらみから、自我のいっさいの深淵から身を引き離すことだ。」(同)
「生きるとは真摯さだ」(同)とレヴィナスは言う。
「真摯さ」とは、今のところ僕の解釈では、「対象がぴったりと欲望に符合する」(同)ことである。
「生きるために食べ物を食べる」という場合には、「食べ物」という「対象」は、それそのものとして欲望されるのではなく、「生きるために」という「別の」欲望において欲望される。
レヴィナスは、そうではなく、「食べるために食べ物を食べる」ということが生きることだ、と言う。「食べるために食べ物を食べる」時、「食べ物」はそれそのものとして欲望されている。
その「真摯さ」は、人間が「実存することという本能の最後のしがらみ」から、「自我のいっさいの深淵」から、身を引き離すことで実現される。
それが「世界内に存在すること=生きること」である。
「世界」とは人間にとってそういう場所である。
「〈世界〉は、頽落という名に適うどころか、固有の均衡と調和、それに無名の存在に別れを告げるという積極的な存在論的機能をもったひとつのエピソードなのである。」(同)
「世界を日常的と呼び、それを非−本来的なものとして断罪することは、飢えと渇きの真摯さを見誤ることだ。」(同)
ハイデガーは、人間の生きる「世界」を「生きるために」においてすべての行為が配置される世界として捉え、それを「頽落」「日常的」「非−本来的」などと呼び「断罪」する(とレヴィナスはハイデガーを解釈している)。
それに対してレヴィナスは、私たちは「生きるために」行為しているのではなく、それらの行為それ自体が「生きること」なのだ、それは「真摯さ」において実現されており、「積極的な存在論的機能をもっ」ている、と反論する。
このように、レヴィナスは、世界内の生に、「積極的な」価値を認める。
世界内の生の価値を貶めるハイデガー(とレヴィナスはハイデガーを解釈している)に対してレヴィナスは言う。
「それは事物の巻き添えをくった人間の尊厳を救い出すという口実のもとに、資本主義的観念の嘘偽りに目をふさぎ、雄弁と雄弁の差し出す麻薬のなかに逃げ込むことだ。」(同)