ロクディムのオンライン公演「KOE」を見た。
僕が一番思ったことは、「孤独」をもっと肯定したい、ということだった。
「孤独」は、公演内で、「悪」と結びつけられていた。
だからつまり、「孤独」を肯定するとは、「悪」を肯定するということだ。
それは、「声」を届かせないでいること、だ。
「声」を届かせないでいることを、肯定したい。
そう思った。
(この公演内でも「孤独=悪」はかなりきちんと肯定されてはいたけれど、「もっと肯定できる」と思ったのだ。)
この公演で、最も「孤独」を表現したのは、名古屋淳である。
僕は、彼のことを最も見たいと思った。
彼が孤独をどうするのか、ということを、見たいと思った。
即興芝居としてどうかとか、完成度がどうかとか、そういうことは無視する。
これから書くことは単なる僕自身の問題にすぎないのかもしれない。これは僕の勝手の自己投影かもしれない。だから全くの的外れかもしれない。
それでもいいや。
失礼を承知で、書いてみる。
……
名古屋淳はもっと孤独であるべきだった。
僕はそう思った。
もっと自己を閉ざすべきだった。
もっと他者を拒否すべきだった。
もっと「素直に」、内にこもるべきだった。
いや、名古屋淳も、「声」を届けたいのだ。
他者に自分の「声」をぶつけたいのだ。
それはそうなのだ。
しかし、だからこそ、今は、もっと孤独でいてもよかったのではないか。
そう思ってしまった。
孤独をもっと深くしてほしかった。
そう思ってしまった。
中途半端に他者に自己を開いていくのではなく、とことん、自己の中に、届かない手紙を書きためていってほしかった。
まだ、手紙が入った引き出しは「いっぱいではない」のではないか。
そう思った。
……
いや、違うのかもしれない。
「中途半端」であること、それが最も孤独であるということなのかもしれない。
他者に思い切り言葉をぶつけることも、思い切り他者を拒否することも、どちらも結局、他者に対して強く当たっているという意味で、他者を求めることができている。
それに対して、「中途半端」であることはどうか。
思い切りぶつけるのでもなく、思い切り拒否するのでもなく。
ある種の「なあなあ」な状態。
中途半端な孤独。
これが最も孤独な状態なのかもしれない。
孤独であることを他者に見せることができる孤独者は、まだ孤独の度合いが低い。
孤独であることを誰にも見せられずに、孤独でないかのように、しかし実は孤独であること。
これが最も深い孤独なのかもしれない。
そういう状態にある人が、最も孤独を自己の中で醸成できているのかもしれない。
その意味で、(僕から見た)名古屋淳は最も孤独であった、と言えるかもしれない。
……
それは危険な状態である。
そのような孤独は、おそらく最も危険な孤独である。
それは、ともすれば現実的な「死」を招くような、そんな孤独である。
だから、その孤独を人に「勧める」ことはよくないことだと思う。
しかし、そのような孤独は、現に、ある。
この孤独を、「肯定」できるのか。
肯定「していい」のか。
でも、「ある」のだ。
「ある」のなら、肯定したい、と僕は思ってしまう。
現に「ある」のなら、「君はそれでいいんだよ」と、言ってあげたくなる。
この世に存在してはいけないものなんて、ないから。
……と僕は思う。
最も深い孤独に対して、「君はそれでいいんだよ」と言うこと。
それは、「君は死んでもいいんだよ」と言うことと、かなり近い。
「死んでもいい」なんておかしい、と思うかもしれない。
でも、「死んでもいい」という言葉に救われる人もいるのだと思う。
「死んでもいい」と素直に思えて初めて、生きることが可能になる人もいるのだと思う。
だって、「死んでもいい」とは、ここでは、死に向かう自分を「いい」ということ=「自己肯定」だからだ。
「孤独でいたい」と思う自分に対して、「そんな自分はダメだ」と思っている限り、彼の身体に生きる力がみなぎることはない。
なぜなら、それは「自分はダメ」=「自己否定」だから。
……
孤独を深めること。
それが必要な人はいるのだと思う。
孤独を肯定すること。
全ての人がそれを必要としているというわけではないのかもしれない。
あくまでも、必要としている人もいる、ということなのかもしれない。
あなたがそういう人だとしたら、他者に向かうのは、孤独をもっと深めてからでもいいんじゃないか?
と僕は言ってあげたくなってしまう。
そうして初めて、孤独をもっともっと深めて初めて、他者に向かう力が湧いてくるのではないか?
……
いつか、大きな爆発が起こるのかもしれない。
名古屋淳の爆発が見たい。
僕はそう思っている。
いつか。
いつになってもいいのだけど。
……
でも、孤独のまま死んでいく人もいる。
他者に向かわないまま、爆発しないまま、死んでいく人もいる。
人間の生は有限だからだ。
人はいつか死ぬ。
だから、「間に合わない」こともある。当然。
それも、僕は肯定したい。
それを肯定しなければ、他者に向かうことを肯定することもできない。
……
……
しかし、どうだろう?
本当に「肯定」は必要なのか?
「肯定的な否定」……この言葉が今僕の頭に浮かんだ。
否定が同時に肯定であるような、そんな否定……
「お前なんか嫌いだ! 死んでしまえ!」と叫ぶことが、同時に相手の存在を根底から歓迎していることになるような、そんな。
「孤独でいい」
確かにそれは救いになる。
でも、「孤独」は寂しいものだ。
「孤独は嫌だ」
そう言っている自分も必ずいる……
「孤独でいい」
「孤独は嫌だ」
どちらも、ある。
……
……
「肯定」するにしても、それは「誰」なのか?
「誰が」肯定する?
自分か?
そんな力を、人間は持っているのか?
自分で自分を肯定すること、それは本当に難しいことだ。
……
「野に放て」
この言葉が、この公演の中で最も印象に残った言葉だ。
野に放つだけでいいのかもしれない。
自分を野に放つこと。
自分を、地面の上に置いてみること。
放つこと。
放ること。
放っておくこと。
そこにはたぶん他者もいるだろう。
放られた自分と、放られた他者と。
気張らずに、力が抜けて、そこにいること。
「孤独でいい」
「孤独じゃなくてもいい」
「爆発してもいい」
「爆発しなくてもいい」
「忘れてもいい」
「忘れなくてもいい」
全部が、力が抜けて、そこにあること。
と、同時に、ないこと。
何もない場所で、安心して、安心していることさえも忘れて、そこにいる、と同時にいないこと。
自由。
声が届く。
と同時に、声が消えていく。
声が野に放たれること。
声を放っておくこと。
声に任せること。
声を許すこと。
喜ぶこと。
悲しむこと。
怒ること。
疲れて眠ること。
朝、起きること。
朝日を浴びること。
夜の闇に融けること。
嫌いだ、と叫ぶ
好きだ、と叫ぶ
ぶん殴る
蹴飛ばす
抱きしめる
苦しいくらいに
暴力
笑う
泣く
……
野に放て!