哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

世界、自分、ゆるし

 新世紀エヴァンゲリオン第25話を観ていた。

 碇シンジに対し、この世界はあなたの世界だ、あなたが望んだ世界だ、という言葉がかけられる。
 そこで碇シンジは言う。
「もうすべて決まりきってる世界だろう!?」
 それに対しかけられる言葉。
「違うわ。あなたが決めている世界なのよ」
「きみの心が、そうだと決めている世界なのだ」
 画面には「それが現実」というテロップ。

 世界のあり方は、自分が決めている。
 こういう考え方は頻繁に語られる。
 すべては自分が決めている。自分が望んだように世界はある。

 こういう考え方は、ともすれば、容易に次のような考え方へ転換される。
「世界は自由に変えられる」
 こんな考え方。

 しかし、これは言い過ぎである。
「世界は自分が決めている世界」
 この考え方を、「世界を変える」という言葉を使って言い換えるとすれば、言えるのは次のことに過ぎない。
「世界は自分で変えることができる」
 これだけだ。「自由に」変えられるかどうかは、まだ言えない。

 自分で変えることはできる。自分が望めば世界は変わる。
 しかし、自分が世界を変えることを「望むかどうか」は、別の問題だ。

 望めば変わる。望めば自由にできる。しかし、望むかどうかを自由にできるとまでは、先の考え方からは、言えない。望みさえすればそこからは自由だが、望むかどうかは自由ではない。

 世界は自分が決めている。
 そのように決めた自分がいる。
 そのような自分であるのは、なぜなのか?
 自分がこのようであるのは、なぜなのか?

……

 世界のあり方によって苦しんでいる人がいるとする。

 僕は、「世界は自分が望んだ世界である」という考え方に賛成する。
 ここから、「いまあなたが苦しんでいるのは自分が望んだからだ」とまでは言える。
 そして、「自分の望むことを変えれば世界は変わるから、それであなたの苦しみもなくなるよ」とまでも言える。

 しかし、「自分の望むことを変えればいいだけだよ。ほら、変えなよ。簡単だよ。自分の外部を変えるんじゃなくて、自分の内部、自分の手の確実に届く範囲を変えるんだから。変えなって。苦しいんでしょ? ほらはやく。なんで変えないの? 苦しいのになんで変えないの?」とまでは、言えない。

……

 自分を変えれば世界は変わる。その意味で、世界は自分の自由にできると言える。
 しかし、自分を自分の自由にはできない。
 なぜなら、自分とは自分だからである。
 自分とは自分自身である。楽しんで生きているにしても、苦しんで生きているにしても、そのように生きている自分、それを望んでいる自分が、自分なのだ。

 もちろん、自分は変わりうる。しかしそれは「出来事」としてである。言い換えれば、「自然」「偶然」「運命」……。自分が変わるかどうかを自分で決めることはできない。自分は自分に身を任せるしかない。

 自分は、自分である。
 どんな自分であっても、自分は自分である。
 それを受け入れるなら、自分をいつもゆるすことができる。どんな自分でも、どんな自分とでも、生きていける。

 あぁ、きみはこういう人間なんだね、そうかそうか。
 そう言って、生きていくことができる。

 そして、それは同時に、世界をゆるすことである。世界は自分の望んだ世界だからだ。

 そうか、そうか。
 そう言いながら生きること。

……
……