新世紀エヴァンゲリオン第25話を観ていた。
碇シンジに対し、この世界はあなたの世界だ、あなたが望んだ世界だ、という言葉がかけられる。
そこで碇シンジは言う。
「もうすべて決まりきってる世界だろう!?」
それに対しかけられる言葉。
「違うわ。あなたが決めている世界なのよ」
「きみの心が、そうだと決めている世界なのだ」
画面には「それが現実」というテロップ。
世界のあり方は、自分が決めている。
こういう考え方は頻繁に語られる。
すべては自分が決めている。自分が望んだように世界はある。
こういう考え方は、ともすれば、容易に次のような考え方へ転換される。
「世界は自由に変えられる」
こんな考え方。
しかし、これは言い過ぎである。
「世界は自分が決めている世界」
この考え方を、「世界を変える」という言葉を使って言い換えるとすれば、言えるのは次のことに過ぎない。
「世界は自分で変えることができる」
これだけだ。「自由に」変えられるかどうかは、まだ言えない。
自分で変えることはできる。自分が望めば世界は変わる。
しかし、自分が世界を変えることを「望むかどうか」は、別の問題だ。
望めば変わる。望めば自由にできる。しかし、望むかどうかを自由にできるとまでは、先の考え方からは、言えない。望みさえすればそこからは自由だが、望むかどうかは自由ではない。
世界は自分が決めている。
そのように決めた自分がいる。
そのような自分であるのは、なぜなのか?
自分がこのようであるのは、なぜなのか?
……
世界のあり方によって苦しんでいる人がいるとする。
僕は、「世界は自分が望んだ世界である」という考え方に賛成する。
ここから、「いまあなたが苦しんでいるのは自分が望んだからだ」とまでは言える。
そして、「自分の望むことを変えれば世界は変わるから、それであなたの苦しみもなくなるよ」とまでも言える。
しかし、「自分の望むことを変えればいいだけだよ。ほら、変えなよ。簡単だよ。自分の外部を変えるんじゃなくて、自分の内部、自分の手の確実に届く範囲を変えるんだから。変えなって。苦しいんでしょ? ほらはやく。なんで変えないの? 苦しいのになんで変えないの?」とまでは、言えない。
……
自分を変えれば世界は変わる。その意味で、世界は自分の自由にできると言える。
しかし、自分を自分の自由にはできない。
なぜなら、自分とは自分だからである。
自分とは自分自身である。楽しんで生きているにしても、苦しんで生きているにしても、そのように生きている自分、それを望んでいる自分が、自分なのだ。
もちろん、自分は変わりうる。しかしそれは「出来事」としてである。言い換えれば、「自然」「偶然」「運命」……。自分が変わるかどうかを自分で決めることはできない。自分は自分に身を任せるしかない。
自分は、自分である。
どんな自分であっても、自分は自分である。
それを受け入れるなら、自分をいつもゆるすことができる。どんな自分でも、どんな自分とでも、生きていける。
あぁ、きみはこういう人間なんだね、そうかそうか。
そう言って、生きていくことができる。
そして、それは同時に、世界をゆるすことである。世界は自分の望んだ世界だからだ。
そうか、そうか。
そう言いながら生きること。
……
……