哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「子供が欲しい」→「子供が可哀想」?

 最近、友人が「子供が欲しい」と言っているのを聞き、なんとなく僕は、親の「子供が欲しい」という思いによってつくられた子供は可哀想だなぁ、と感じました。
 このことについて友人とラインで話をしたので、そのラインの文章を載せます。
 相手からの返信と、それに対する僕からの直接の返答は消してあります。と言っても、ほとんど僕が一方的にしゃべっていたので、話のつながりが分かりにくくなってしまった部分はあまりないと思います。
 吹き出しごとに区切りました。
 また、文章は若干修正しています。



なぜそう思うのか自分でもよく分からないんだけど、「子供が欲しい」という明確な目的意識のもとに生まれた子供って、なんだか可哀想だなぁと思った。

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子供が、親が持っている何かしらの目的のためのものにされちゃってる感じがする、のかな

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「明確な」の意味がポイントだよな

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子供がほしいと思って性交して子供ができる

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それだけで「可哀想」を感じるわけではないんだよな

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「子供が欲しい」を、どんなふうに思っているかだな

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わしが考えているのはたぶん、「思い方」みたいなことだと思う。

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走り方とか怒り方とかそういう。

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実際のことは分からんけど、「子供が欲しい」という思いが生まれるとき、明るい気分なのか、暗い気分なのか、嬉しいのか、怒っているのか、眠いのか、暑いのか、ぼんやりなのか、はっきりなのか、体の芯から湧き上がってくる感じなのか、空から降りてくるような感じなのか、足の先から伝ってくるような感じなのか、全身が震えるような感じなのか、しんと静まり返るような感じなのか、、、

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みたいな

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仮説だけど、
子供が生まれる前の生活と子供が生まれた後の生活で、幸福の「量」が変わる(多くの場合増える)と考えている場合が、わしは嫌なのかも。つまり、「もっとよくなる」という考え。

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「子供が私(たち)の生活をもっとよくしてくれる、充実させてくれる」みたいな。
「もっと困難にさせてくれる」でも、「もっと手応えのあるものにしてくれる」でも、同じ。

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ざっくり言えば、何かを「期待」することか

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それに対して

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子供が生まれる前の生活と子供が生まれた後の生活で、幸福の「質」が変わるとだけ考えている場合は、わしは可哀想とは思わないのかも。
(「だけ」と書いたのは、「量」が変わると考えることと「質」が変わると考えることは両立するから。)

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でも、「生活の質を変えたい」と思って子供を作るのなら、それは実際のところ「量」の変化も求めていると思う。

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「変えたい」には、やっぱり「今よりももっと(よくしたい)」ということが含まれているから。

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だから、わしが子供に対して「可哀想」と思わないような「子供が欲しい」の思い方は、「子供ができるだろうな」という一種の予感としてのものだと思う。

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予感
予言
未来が見える感じ

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極端に言えばね。

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変化という観点で言えば、
「変えたい」ではなく、「変わるだろうな」。

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「子供ができるだろうな」という予感は言いすぎかもね。精子卵子がくっつくかどうかは人間の関与できるところではないから(それとも今の技術なら関与できるのかな? でもそこにあえて関与するとしたら、何かしら「量」的な期待を持っているように見えてしまう……)。

だから、より正確に言えば、「子供ができるだろうな」ではなく、「避妊行為をせずに性交するだろうな」かな。

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「子供ができることを拒否しない仕方で性交するだろうな」の方がしっくりくる。

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「私(と〇〇)には、子供ができることを拒否しない仕方で性交するタイミングが、近々来るだろうな」

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みたいな感じかな。わしが子供に対して「可哀想」と思わないような「子供が欲しい」の思い方は。

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これなら、子供が何かの目的のためのものにされない、かな?

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「子供が欲しい」という思いから子供を作ることは多くの場合「子供が何かの目的のためのものにされている」という事態に感じる、というわしの認識がそもそもどこかおかしいのだろうか。

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もしかすると、「私(と〇〇)には、子供ができることを拒否しない仕方で性交するタイミングが、近々来るだろうな」という仕方での「子供が欲しい」の中には、「子供ができたら今よりも(生活などが)よくなるだろうな」という予感も含まれているのかもしれない。
でも、そこでの「よくなる」は、子供ができる(そして育てる)という外的な出来事から直接到来してくることではなくて、その外的な出来事に自分が置かれることによって、自分が自分自身の生活をよくするような思考・行為をするようになるだろう(あるいは、なりやすくなるだろう)、ということ。
そして、期待はできないけれど、もしかすると周りの人たちもそうなるかもしれない、ということ(言い過ぎか?)。

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自分が自分自身の生活をよくするような思考・行為をするようになるために子供を作るわけではなくて、

子供がもしできたらそうなるだろうということ。

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いやー、いきすぎかなー

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子供がもしできたらそうなるだろう(という予感)、の場合も、ちょっと、もう、子供に対して「可哀想」と思っちゃうかもなぁ

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いや、そこも予感の仕方によるんだろうな。

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自分が自分自身の生活をよくするような思考・行為をするようになることが、子供ができること「によって」ではなくて、子供ができること「と連動して」とか「と並走して」なら、いいかも。

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因果関係でつながる現象ではなく、あくまでも独立した現象。

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とは言えもちろん無関係ではない。子供がいない場合の「よくするように思考・行為する」仕方と、子供がいる場合の「よくするように思考・行為する」仕方は異なるはず。

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みたいな感じですかね。とりあえず今日のところの僕の考えたことは。

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以上。