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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

映画『溺れるナイフ』 感想

映画『溺れるナイフ』の感想

小松菜奈好きの友人から、「面白さが分からなかったから、面白さを教えてほしい」みたいなことを言われて、観て、書いて、その友人に送ったもの。

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溺れるナイフ」観た。
意外と面白く観れたなわしは。

ああいう映画(?)のミカタが分かった!笑
ああいう映画は、いろいろ言葉が尽くされてるけど、どれもそんなに意味はない。例えば、「○○だから別れよう」とか言ってても、それは、「そう言ってる」だけ。意味はない。「○○だから」とかに意味はない。要は「別れたい」ってこと、それだけ。いや、それも言いすぎか。「ムリ」ってこと。「ヤダ、ムリ」ってこと。それだけ。

だから、オモテに表れている言葉を捨象しなきゃいけない。まあ、「捨象」っていう言い方はちょっと違う気はするんだけど……「捨てる」だとちょっと強い……。言葉をまずは「言ってるだけ」「発してるだけ」のものとして受け取るということ、かな。

その結果、一つ一つのシーンがすごくシンプルなものとして見えてくる。
そうすると、共感できる。共感まではいかなくても、「ああそうなんだな」って思える。



欲深くて素直で美人、だから「遠くまでいける」少女と、田舎にとらわれた、でもすごーく敏感で心身がいつもチリチリ燃えている少年。

少女は「東京の人」。「行こう」と思える人、「行っちゃう」人。少年は、どうしようもなく田舎にとらわれている。でも、メチャクソにとらわれているからこそ、火祭りであんなに格好良く踊れるんだろうね。抑圧と、その抑圧への反抗と、抑圧への従順と、っていう緊張状態に常にいる(ことのできる体質)。
少女はそういう危うさから生まれる格好良さに惹かれるのだけど、その危うさを生むもの(田舎へのとらわれ)は、少女の欲望(一緒にいたい)とは絶対的に反してしまうものである。二人が一緒にいることは、少年が自分のとらわれを捨て去るということ(少女が「行っちゃう」人だから)だが、それを捨て去ってしまうと、少女が少年において惹かれていたものが消えてしまう、という構造になっているのだと思う。あの少年は、田舎を離れたらそれまでの格好良さを失うんだろうね、たぶん。それが怖かったのかもね、無意識的に。だから一緒にいられなかったのかもね。

まあ、そういう格好良さを失ってからが、たぶん、「大人」の物語の始まりなんだと思うけど。それは、「言葉」の物語、と言えるのかもしれない。言葉が意味を持つ物語。自分の言葉に意味がなかった、自分の言葉によって自分は自分や自分の世界を作っていたわけではなかった、そこに生まれた激情に巻き込まれてただ流れていただけだった、と気付いて初めて、「自分の言葉」が話され出せるようになる。自分を自分でつくっていけるようになる。自分が自分に責任を持てるようになる。それが「大人」。少年はまだそこまで行かなかった。そういう(「子供」から見ると)「格好の良くない」ところまでは。

映画は明るく終わってた。
バイクに二人乗りして……
どうなるのかは知らんけど、少年はこれから進んでいくんだなぁと思った。
(他方、少女は欲深い東京人だから進んでいくことが本来当たり前なのだ。)

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