哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

生きてあげてる……

 地元の祖母の家に帰省し、僕がどんなときに「嫌になってやめる(離れる)」のかについて少し気づきがあったから、ちょっと書いてみる。

 共通点があったのだ。
 僕がひと月前にアルバイトを辞めた時と、さっき、しばらくこの祖母には会わないことにしようと思った時の、状況に共通点があったのだ。

 アルバイトを辞めようと思ったのは、店長から「もっと速く動けないか?」と言われた時である。
 そして、祖母には会わないようにしようと思ったのは、「〇〇(=僕の弟の名前)は就職して(ふるまいが)大人になった」という話をされた時だ(この前に、「きちんと就職して家庭を持てるようになってほしい」という話をされたり、祖母が僕の親に「✕✕(=僕の名前)は(きちんと就職するまでの)時間がかかりすぎている」という話をしているのを偶然聞いてしまったりした)。

 共通点はどこか。

 それは、僕が「ここまでで限界だ」と思っていることに対して「もっとやれ」と言われる(あるいは、そう言われたと僕が感じる)、ということである。
 アルバイトでは、僕が自分の限界の速さ動いていたつもりだったにもかかわらず「もっと速く」と言われた。祖母の場合では、僕の気持ちとしては、祖母との関わりは「祖母に会いにいく」ということだけで限界だったのだが、「もっと就職を頑張れ」みたいなことを言われた(と僕が感じてしまった)。

 まだ足りないの? まだ満足しないの? と思ったのだ。
 今の僕であなたが満足しないなら僕はあなたから離れます、ということである。僕はこれ以上頑張る気はない。


 ここにはもう一つの共通点がある。
 それは、アルバイトも、祖母に会うのも、僕にとって「そもそも嫌なこと」であるということだ。
 だから、さっき書いたことと合わせると、「「そもそも嫌なこと」を自分の限界まで頑張ってやっている時に、「もっとやれ」と言われると、僕はそれをすることをやめ、「もっとやれ」と言った人から離れる」ということになる。



 僕にとって、おそらく、アルバイトも、祖母に会うのも、ある種の「サービス」なのだ。つまり、「やってあげている」という形でなされることなのだ。

 祖母は僕に会いたがる。だから僕は「サービス」として会いにいく。会いにいって「あげる」のだ。

 アルバイトはどうか。アルバイトは自分が生きるためにやるのだから、「サービス」ではないように思える。でも、おそらくアルバイトも「サービス」なのだ。
 僕の気持ちとしては、おそらく、「生きてあげている」のだ。だから、生きるためのアルバイトも「やってあげている」「サービス」なのだ。


 はじめから僕は嫌々やっている。アルバイトも祖母に会うのも。嫌々、できる限りやっている。限界までやっている。
 そこで、「もっと」と言われると、プツっと緊張の糸が切れてしまう。もういいや、と思ってしまう。全部投げ出してしまう。

 こういうパターン、この前のアルバイトや祖母の例に限らず、今までもあったのだろうなと思う。



 たぶん、アルバイト先の店長や祖母との関わり方を変え、僕の考え方・感じ方・在り方を変えていくという方向もあるのだろうけど、そこまでする気持ちは起きない。そこまでするほど彼らとの関係は僕にとって大事ではない、からだろう。








 「生きてあげている」って、誰のためだよ? って感じだね。

 僕は自分のために生きてこなかった、ということなんだろうか?

 これは、僕の、他人への、「依存」なんだろうな、と、思う(ここで自己卑下をしてはいけない(笑))。
 僕は何をするにも、「他人との関係において」それをしてきたのだろう。