哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

書く時に④

僕が文章を「分かりやすく」書くのは、
特定の誰かに「分かってほしい」と思う時である。

ということは、
特定の誰かに「分かってほしい」と思っていない時は「分かりやすく」書かないわけである。

この「特定の誰か」には、僕自身も含まれていると仮定する。自分が分かりたいと思って書いているなら、自分にとって「分かりやすい」文章を書こうとするだろう。この場合、自分にとっては「分かりやすい」けれど他人にとっては分かりにくい、という事態が生じうる。

とすると、「分かりにくさ」には二種類あることになる。
自分にとっては「分かりやすい」けれど他者にとっては分かりにくい場合と、
自分にも他者にも「分かりにくい」場合である。

前者は誰でも容易に想像できそうだ。
自分では完璧だと思った文章や主張を他人に読ませ・聞かせたら全然理解されなかった、という経験は多くの人がしていると思う。

後者はどうか。
自分にも他者にも「分かりにくい」文章。
これは、ここまでの僕の整理に当てはめれば、誰にも「分かってほしい」と思っていない(自分が「分かりたい」とも思っていない)場合の文章である。

そんな文章をなぜ書くのか!

……今、「そんな文章をなぜ書くのか!」と書いて、何かすごく興奮している自分がいることを感じる。軽やかで、嬉しがっている自分。解放的な自分。

僕にとって、誰にも「分かってほしい」と思わずに書く文章は、自分を「解放」する意味があるのかもしれない。

神、というものを、やはり、思ってしまう。
神の道具……
僕は神の道具でいたい。
神の道具であることが、僕からの解放であり、僕への解放である。

誰にも届かない、のだろうか。僕の文章は。
そんなことはない、と思う(っていうか実際、常日頃からいろんな人に読んでもらって、その人たちにはある程度届いている実感があるし)。

しかし、なぜ届くのだろう?
「分かってもらおう」としていない文章が、
なぜ他者に届くのか。
「理解しようと頑張ってくれているからだ」?
そうかもしれない。
では、なぜ頑張ってくれるのか!

その人が、わしのこと好きだからでしょ。

では、なぜ好きなのか。

なんで?

いや、「僕のことが」好きなわけではないだろう。

僕の文章が彼らに届くとして、
そして、
僕が神の道具に少しでもなれているとしたら、
彼らは、
僕の文章を通じて神を感じることが、好きなのではないか。

「神」という言葉がアレなら、
「解放」でもいい。

「解放」が好きだから、僕の文章が好きなのではないか。

「解放」の定義。
隠すのをやめること。
覆いを取ること。
我慢をやめること。
ダメだと思っていたことを自分に許してあげること。