哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

映画『渇き。』の感想

この前、『渇き。』を観て、感想を友人宛てに書き送りました。
以下がそれです。




1通目

『渇き。』観ました〜
面白かった。
テンション上がる感じですね笑
中島監督がこういう系の演出をするというのは、宮台真司の本を読んで知ってたけど、実際観てみて、結構好きだなと思いました(でも昔観た『告白』はこれほどではなかった気が……)。
「ルールがないの」みたいなことを小松菜奈が言ってましたけど(おそらく原作にはないはず)、演出と噛み合ってましたね。

あと、当たり前かもしれんけど、年のいった人のやる演技と若い人のやる演技って違いますね。というか、違うふうに中島監督は演出した、ということなのかな。「やって」様になるにはきっと経験がいるんでしょうね。付け足す系というか盛る系というかね。そういうの。若い人が「やる」とわざとらしくなっちゃうのかな。若い人への演技指導はきっとできる限り「やらない」方向になるのかな。

……でも、松岡茉優とか高畑充希とかは、若いけど「やる」系の演技が様になってるなぁ。だからわしはこの二人の演技が好きなのかなぁ。何が「だから」なのか分かんないけど笑
 


2通目

あと、山戸結希の映画と似てるかもなーと思って調べた。『渇き。』の小松菜奈のメイキング(?)を山戸結希が撮ったらしい。詳しくはよく分からんけど。



3通目

原作のタイトルが『果てしなき渇き』で映画のそれは『渇き。』なのがなぜなのか、なんとなく分かる。
この映画にある渇きは果てしなくない。端的な渇きだ。
この映画には、深みがない。表層だけが描かれている。表層しかこの世界には存在しないとでも言うかのように(したがってそれを「表層」と呼ぶことも不当なことだ)。
例えば、登場人物たちの行為の動機は示されない。なぜ彼らがそうするのかは示されない。ただそうしたい、そうしている、ということだけが分かる。ただ欲望だけが蠢いている。
今だけがある、と言い換えてもいいかもしれない。過去も未来もない。今だけがある。
原作小説では、登場人物たち(特に主人公の藤島)は渇きのゆえにいつも水を求めているように見える。体を潤したいといつも思っている。だから焦っている。急いでいる。だから悲壮感がある。
映画版での渇きは、水を求める渇きとは違う。真夏の炎天下で水を飲まずにいつまでも野球ボールを追いかけていると、徐々に気がおかしくなってきて、気持ちよくなってきて、興奮してきて……そういうことがある。宮台真司のよく言う「変性意識状態」だ。映画にあるのはそういう渇きだ。だから悲壮感がない。祭りのような高揚感が溢れている。

以前、「江國香織の小説はストーリーを楽しむのではなく描写の強度を楽しむものなのではないか」という話をした気がする。
『渇き。』がそれと似ているのかもと一瞬思ったが、たぶん違う。
この映画の描写は、激しいけれど強くはない。しなやかさがない。粘りがない。軽い。脆い。一瞬の輝きがあり、すぐにそれはポキリと折れる。
行為の動機が見えない理由もそこにある。描写の強度を味わう物語は、時間(ストーリー)的な描かれ方ではない仕方で、出来事や行為の理由や動機……あるいはもっと広く、「納得感」のようなものを与える。「うん、そうだよね、こうなるんだよね」と思える。それはやはり、強度=深みがあるからだ。滋味深い味わいの中に、無時間的な因果関係が示される。
『渇き。』には時間もないし強度もない。時間的(ストーリー的)な因果も無時間的(強度的)な因果もない。時間的に見ようしても、シーンとシーンが「バラバラ」で、前のシーンと後のシーンの繫がりが故意に希薄化されているため、困難だ。
強度的に見ようとしても、やはり「バラバラ」にされたシーン群がそれを邪魔する。丁寧に描写を味わおうとしても、シーンが矢継ぎ早に切り替わってしまうから、それができない。

狂騒。そう呼ぶのが相応しいかもしれない。
映画の最初、主人公の藤島が統合失調症躁うつ病の疑いがあることが示される。
『渇き。』が肯定するのは、訳の分からないバラバラの欲望の束だ。それは、「理解可能な」「一貫性のある」「普通の」欲望に抗して肯定される、という面もありつつ、実はそういう訳の分からないものしかこの世にはないのではないか(=人は皆統合失調症あるいは躁なのではないか)とまで示すような仕方で肯定されているようにも見える。
正当性もなければ深みもない。ただのハダカの動物。端的な渇き、乾いた渇き(≠湿った乾き、果てしなき渇き)の中で狂騒する。それだけ。私たちの生は本来そういうものなのではないか……
納得はいらない、と、この映画は言っている。



以上。