正確なことはもう全然覚えていないのだけど、小学生の頃、何かの機会で、先生たちのことを紹介するためにクラスの皆で短い文章を考えたことがあった。
その時みんなで考えた文章が、ほとんど、「〇〇"だけど"✕✕な田中先生」みたいな形式だった。
つまり、「だけど」という逆説で繋げられた文章だったのだ。
それを見た先生は、確か、「〇〇だけど」と言うとまるで〇〇が悪いことみたいに聞こえるからやめたほうがいい、というようなことを言ったんだと思う。
そして、最終的には全ての紹介文が「〇〇で✕✕な田中先生」というような形式になった。
ふと、さっき、このことを思い出して、僕のスピノザ解釈はこの出来事の影響下にあるんじゃないか? と思った。
素人読みですけども、スピノザはたぶん、「積極的なものだけが存在する」と言っている。
これは言い換えると、「良いものだけが存在する」となるのかもしれない。
「〇〇だけど✕✕」は、「マイナスなこともあるけれど、プラスなこともある」ということ、あるいは、「悪いこともあるけれど良いことある」ということである。消極的(=ネガティヴ)なことと積極的(ポジティヴ)なこと。
スピノザからすれば、消極的=ネガティヴ=マイナス=悪いことは存在しない。積極的=ポジティヴ=プラス=良いことだけが存在する。
逆に言えば、或るものが存在するということは、その或るものが積極的=ポジティヴ=プラス=良いものであるということだ。
だから、スピノザにとって、「〇〇だけど」という存在の仕方はありえない。そういう言い方はありえない。
全ては、存在するもの全ては、「だけど」ではなく、ただ単に並列的に並べられる。「アンド」で並べられる。存在するものは全て積極的であるという点で同等だからだ。
スピノザを、僕は今のところこういうふうに読んでいる。おそらく、小学生の時の経験から生まれたある力がそうさせてきた面があるだろう。それに気づいたこれからは、どうなっていくのだろう。