哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「真理」について雑考

 真理ってなんだろう。

 まあ、真理とは、「本当のこと」である。

 「空は青い」
 空を見上げてみる。確かに青いぞ。じゃあ、「空は青い」は真理だ。
 素朴にはこういうことである。

 でも、夕方になると空は橙になる。
 「空は橙」
 では、「空は青い」と「空は橙」、どちらかが真理で、どちらかが非真理なのだろうか。

 いや、こう言えばいい。
 「昼間の空は青い」
 「夕方の空は橙」
 こう言えば、どちらも真理として両立する。

 でも、色の見え方が一般とは違う人がいる。
 例えば、青が赤に見えるとしよう。そうすると、その人にとっては「昼間の空は赤い」ということになる。
 「昼間の空は青い」と「昼間の空は赤い」、どちらかが真理でどちらかが非真理なのだろうか。

 こう言ってみよう。
 「Aさんにとっては昼間の空は青い」
 「Bさんにとっては昼間の空は赤い」
 こう言えば、どちらも真理として両立する。

 こう考えていくと、「じゃあ、空の本当の色は何色なの?」ということになりそうだ。
 「人によって見え方が違うから赤く見えたり青く見えたりするけれど、本当は何色なの?」と。
 「空の本当の色」を〝一つ〟に決めるとしたら、それは何色なのか、と。

 でも、実際、空の色を一つに決めることはできない。色というのは、色として物事を捉える器官(目)があって初めて成立するのであって、その器官がなければ色というのはそもそも意味を持たない。

 それはそうだ。
 とは言え。
 「本当の色」というのが存在しないとしても「本当の状態」と呼べるようなものは存在しているのではないか、「本当の状態」がまずあって、それを各々の人(の目)が各々の仕方で各々の色を見るのではないか。「本当の状態」のような「何か」があってはじめて、人によって異なる見え方というのも成立するのではないか。「本当の状態」があるからこそ「仮の状態」が見えるのではないか。

 「本当の状態」とは何か。
 例えば、原子の集まりのようなものか。

 でも、結局、原子も、それが観測されるものである限り、色の場合と変わらない。観測する器官によってその捉え方は変わるだろう。そうなると、「原子はそれを観測する各々の器官によって捉え方が違う、では「本当の原子」とは何か、あるいは原子として観測される前の「本当の状態」とは何か、ということになる。

 ではこう考えよう。
 「本当の状態」とは何なのかを考えるのをやめる。「本当の状態」を観測しようとするのをやめる。それを観測する器官、能力、技術がまだないから観測しないのではなく、そもそもそれは観測することが成立する枠組みには入りえないものだ、と考えてみよう。観測されることがありえないもの。
 「本当の状態」は、観測されることはありえないけれど、存在する。
 一つの「本当の状態」は、それそのものが観測されることはありえないけれど、存在する。その一つの「本当の状態」を各々の器官が観測すると、各々の器官に従って各々の像が結ばれる。


 ……

 ……「観測されることはありえないけれど存在する」ものって何だろう。

 「存在する」としたら、やはり何らかのカタチがあるものでしかありえないのではないか。
 つまり「観測されうる」ものでしかありえないのではないか。
 見えるものとか、何かの考えとか、音とか、匂いとか、そういう類のものでしかありえないのではないか。

 「観測されることがありえない」としたら、それを想像することは全くできない。理論的に「想定」はできても、「想像」はできない。


 したがって、そんな「本当の状態」なんてものは存在しない!
 ……とは言わない。ここまでの話からはまだ、言えないだろう。


 まあでも、とりあえず、「本当の状態」は存在しないと考えてみよう。
 「本当の状態」は存在しないとしても、私たちは「青い空」を見たりしている。「空は青い」という観測結果は明らかに存在している。
 「本当の状態」が存在しないとしたら、それは例えば、何も存在していないけれど空が見えてはいる、ということになる。
 何も存在していなくても、観測結果は存在する。つまり、観測されるものと観測するものがあって初めて観測が成り立つ、ということが否定される。観測されるものが存在しなくても観測は成り立つ。観測するものさえいれば観測は成り立つ。観測するもの以外には何も存在しなくても観測は成り立つ。イメージとしては(あくまでイメージとしては)、真っ暗で何もない空間に一人だけ人間が存在する、みたいなことだ。

 この場合、真理はどうなるのか。
 本当の状態とその観測、というセットではもう考えられないのだから、観測結果が本当の状態と合致しているか否か、という基準で真理を語ることはできない。ここには「本当の状態」は存在せず、観測だけが存在するのだ。
 観測と、観測の観測、というセットでは考えられるだろう。例えば、青い空を観測したとしよう。そうして、青い空を観測したということを観測したとしよう。それは例えば、青い空を見ている時に、「ああ、私は青い空を見ているんだなあ」と思うということだ。「私は青い空を見ているんだなあ」と思った時に、その人が実際に青い空を見ているとしたら、その「私は青い空を見ているんだなあ」という思いは真理である。……でも、青い空を見ている時に、「私は赤い空を見ているんだなあ」などと間違うことがありうるのか。それは、単に言葉上でのみ間違っているだけ、つまり、観測の間違いではなく言い間違い(「青」と言ったつもりが「赤」と言っていたとか)でしかないのでは、という気がする。観測しているその時にその観測についての観測を間違うというのはありえないのかもしれない。
 ではこれはどうか、過去の観測と、過去の観測の観測、というセット(たぶん未来の観測と未来の観測の観測のセットでも同じように考えられる)。つまり、以前に青い空を見たとして、それを後日「3日前に青い空を見たなあ」と思うというようなことだ。それで、実際に3日前に青い空を見ていたならその「3日前に青い空を見ていたなあ」という思いは真理である。これは間違う可能性がある。青い空を見ていたのに、「赤い空を見ていた」と、記憶が変わる可能性があるからだ。






 うーん、なんか、根本的に考え方を変えてみたいんだよな。

 NHKの100分で名著で國分功一郎さんが言っていたような、あるいは『欲望会議』で千葉雅也さんが言っていたような、「真理を知るためには自分が変わらなければならない」というような真理観に近い考え方。

 例えば、「空は青い」と言う人は、「空は青い」と言う真理状態なのだ(心理状態ではなく)。
 「空は赤い」と言う人は「空は赤い」と言う真理状態なのだ。

 10歳の子供がビールを飲んで「まずい」と言うのは、ビールを「まずい」と言う真理状態なのだ。
 40歳の大人がビールを飲んで「うまい」と言うのは、ビールを「うまい」と言う真理状態なのだ。

 柔道の背負い投げができる人は、柔道の背負い投げができる真理状態である。
 スピノザの『エチカ』を理解できる人は、スピノザの『エチカ』を理解できる真理状態である。
 お互いに好きで付き合っているカップルは、好きで付き合う真理状態である。
 消費税が10%の日本は消費税が10%の真理状態である。

 ……自分でも何が言いたいのか分からない(笑)。


 「それが存在する」ということが、イコール「それは真理だ」ということ、なのだと思うけれど、自分で言っていてどういうことなのかよく分からない(笑)。





 たぶん、私は、「当たってる」とか「間違ってる」とか言えるような真理を、と言うかそういう真理観を、一旦棄てたいのだ。
 どういうことか。
 「当たってる」「間違ってる」の真理観は、人々に優劣をつける。それがイヤなのだ。

 「当たってる」「間違ってる」と言える真理観では、「当たってる」人、つまり真理を(多く)認識している人の方が「優」であり、「間違ってる」人、つまり真理を(多く)認識していない人は「劣」である。そういうふうに見なされる。

 そしてそういうふうに見なされるとしたら、真理を認識している人は優越感をおぼえ、真理を認識していない人は劣等感をおぼえる。
 これがイヤなのだ。
 認識するものでなくてもいい。スポーツができる人は優越感をおぼえ、スポーツができない人は劣等感をおぼえる。お金を持っている人は優越感をおぼえ、お金を持っていない人は劣等感をおぼえる。人に優しくできる人は優越感をおぼえ、人に乱暴に接してしまう人は劣等感をおぼえる。
 そういうのがイヤなのだ。


 比べる必要はないのだ。人と比べて、あいつはレベル60だけど俺はレベル30だ、などと落ち込まなくていい。あいつはレベル30だけど俺はレベル60だ、などといい気になるのは卑しい。

 その人の今のその状態が、その人にとっての100なのだ。
 これを言い換えれば、その人の今のその状態が、その人の今の真理状態なのだ、ということになる。
 そういう真理観を考えたいのだ……。




 『エチカ』の100分で名著、第2回で伊集院さんも気付いていたんだけど、スピノザの言う、「完全性が大きくなる」「完全性が小さくなる」というのは、すごく面白い考え方なんだよね。

 「完全性が大きくなる」という時、それは完全性が30だったのが60にアップするということではない。
 完全性はいつでも100(だって「完全」性だし)。その100の大きさが、100のまま(←ここ!!)、大きくなったり小さくなったりする、ということなのだ。体重が50㎏の人も80㎏の人も、その体重がその人にとっての完全(=100)である。ただ、人それぞれで(あるいは時と場合によって)完全(=100)の大きさが違うということだ。


 だから、たくさんの真理を知っていようが全然真理を知っていなかろうが、優越感も劣等感もいだく必要がない。その状態はその時のその人にとっての完全なのであり、それは比べることではない。30歳の大人が5歳児と比べて、「俺はあいつより頭がいいぜ」と優越感を抱くことがないのと同じだ。

 他人と(未来の自分や過去の自分と、でもいい)比べて努力する(=30を60に上げようとする)のではなく、今この瞬間の自分の100を感じ取ろう。感じ取って、その自分が求めることだけをして生きよう。それで十分だ。そうしていると、おそらくいつの間にか、その100を突き破ろうとする力が働いてくると思う。その力に身を任せていくと、新たな100の自分が生まれてくるだろう。脱皮のようなものだ。

 スピノザが「完全性が大きくなる」「完全性が小さくなる」と言う時、それは、新たなものに変化するということなのだと思う。決して、30が60に増えるというようなことではない。同一尺度の上を進んでいくことではない。尺度自体が変化するということなのだ。新たな100に生まれかわるということなのだ。

 だから、真理も生まれかわる。そのつど100の真理。そのつど100の自分が関わることのできる真理に私は関わる。それで十分だ。それで完全だ。新たな真理に関わることができるのは、その時が来たら、だ。それまで待っていればいい。その時が早く来ないから自分はダメだ、と思わなくていい。待てばいい。それで完全なのだから。