昨日書いた、僕の小学生時代の思い出とスピノザについての記事(→https://tani55sho44.hatenablog.com/entry/2019/01/17/162611)を友人に見せたら、
「いま辛い、いま苦しい」というのはどうポジティヴに解釈するのか
という返信をもらった。
それに対する僕の返答を載せます。たぶん直接的には答えてないんだけど……。
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いま辛いこと、苦しいことは、ただ単に「いま辛い、苦しい」と解釈するんじゃないかなー
存在の仕方をよりシンプルに! ということだと思う、「積極的」というのは。
それが存在するということを、それが存在するということ以外のこと(〜だけど存在する、〜だから存在する)で説明しない、ということだと思う。
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思ったんだけど、「積極的=ポジティヴ=プラス=良い」といった言葉の意味が、限りなく「存在する」に近くなってるんだろうな。
「それが良いから存在する」とかではない。「ポジティヴだから存在する」とかではない。
「良い‐悪い」「ポジティヴ‐ネガティヴ」みたいな対立を自体なくすことが、スピノザの言う「ポジティヴ」なんだろうな。
そういう対立があると、「ポジティヴだから存在する」「ネガティヴだから存在しない」あるいは「存在するからポジティヴ」「存在しないからネガティヴ」みたいに二段構えになっちゃうんじゃないかな。それを一段構えにしたいんだと思う、スピノザは。「存在する」だけ。あるいは「ポジティヴ」だけ。「良い」だけ。
そうか、そうなると、もはや、「存在する‐存在しない」の対立もなくなるのかもしれん。「存在する」、それだけで終わり、それ以上でもそれ以下でもない。「存在する」は「存在しない」の反対ではない(!)。「存在する」は「存在する」だけで完結している。
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以上です。2つに分けて返答していたので、一応ここでも分けました。
そしてもう一つ、「そういうふうに解釈するには訓練や努力がいる」という指摘ももらいました。
そのとおり、ですよね。
訓練や努力はいるんでしょうね。
最初この字面を見たとき、「訓練や努力って、辛いよね、苦しいよね」とちょっと思った。
でも、どうなんだろう。
いや、確かに苦しいのだろうけど……
たって、修行だもんね、たぶん。
それに、一生するものだもんね。死ぬまで、あるいは死んだあとも。
僕は、スピノザの本を読むと、スピノザって明るいな〜と思います。
訓練や努力も、スピノザ的には、それが存在する限り積極的なこと……
と言うか……
積極的ってたぶん、「常に新たに存在し続ける」ということ。
「常に新たに」!
だから、終わらない。
存在「する」を永遠に繰り返す。
存在「する」をやめたら、それはもう「存在」じゃなくなっちゃう。積極性ではなくなっちゃう。
「存在」であるために、存在「する」。
「訓練と努力が必要」ってそういうことなのかも、と思った。
「訓練と努力」とは、存在「する」ということ。あるいは、自ら存在「する」ことによって、存在「する」現実と共にあろうとすること。
「する」というのはある種の能動性だから、辛く苦しく見える。
うーん……
見える(笑)、まだ見える(笑)、辛く苦しく(笑)。
どうなんだろうな。
僕の感覚として、以上の意味での「訓練と努力」をしないなら生きてても仕方ないじゃん、というのがある。で、それをしないと生きてても仕方ない、と思わせるようなものが、「辛く苦しい」だけなわけがない(笑)と思うんだよな。なんと言うか、感触的にそう。僕が今までどのくらい「訓練と努力」をしてきたかはアレですけども、「訓練と努力」をしている自分自身に触れると、「辛く苦しい」と同時に「楽しい!」という質感がにじみ出ているんだ。
そうか、楽しいのか。
存在「する」は、能動だけど、能動ではない……うぐぐ(中動態という言葉を使いたいけど、僕の今の段階ではまだ早いような気がする)。
存在「する」って、「集中する」ってことなんじゃないか。いま起きていることを見逃さないように、聞き逃さないように、感じ逃さないように、集中する。イメージとしては、座禅とか?(よく知らない笑)
いま起きていることは、自分において起きていること、あるいは自分の周りにおいて起きていること。
それを、落ち着いて、感じ取り続けること(落ち着いてと言っても、そこで起きていることが興奮系のものだったらそれを感じ取ってる自分も興奮するかな?)。
もちろん全てを感じ取れるわけはなく。感じ取れることだけを感じ取る。いや、感じ取れるものだけが全て、なのか……?
まあ、まだよく分かんないけど、とりあえず、サッパリ系の「楽しい」だと思うね、スピノザは。
あと、「常に新たに存在し続ける」ことが積極性であるとなぜ言えるのかがよく分かってない。
と言うか、もっとちゃんとスピノザ読まなきゃ!