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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

スピノザにおける名誉と恥辱についての覚書

スピノザは名誉と恥辱について言っている。

名誉は、自分の行為が他人から賞讃されていると思った時に感じる喜び。
恥辱は、自分の行為が他人から軽蔑されていると思った時に感じる悲しみ。
(ちなみに、自分の行為のどんな利益が他人から賞讃され、どんな不利益が他人から軽蔑されたのかは、ここでは関係しない。)

スピノザは、この二つの感情(名誉と恥辱)は有害であると言う。
その理由は、この二つの感情が「自愛に基づく」から、そして「人間が自己の行動の第一原因であり従って賞讃及び非難に値するものであるという謬見に基づく」から。
つまり、名誉と恥辱が、「自分が」賞讃・軽蔑されていると感じる感情だから。
この「自分が」が、スピノザによれば「謬見」なのである。

スピノザにおいて、人間の「行動の第一原因」は人間ではない。ではなにか。
神である。
したがって、名誉と恥辱における誤りは、神が賞讃・軽蔑されているにもかかわらず人間である自分が賞讃・軽蔑されているとその人間が認識している、という点である。
スピノザによれば、誤った認識は有害な感情を生み、そして有害な行動を生む。だから名誉と恥辱は有害であるということになる。だからこれらの感情は「排斥すべきもの」である。

しかし、スピノザは以下のように続ける。
「しかし私は、我々が人間の間においてあたかも名誉や恥辱の全然存在しない別世界において生活するごとくに生活せねばならぬと言うつもりではない。いな反対に、人々を益し人々を改善するためにならこの両者を利用することは許されること、のみならず、我々自身の自由を(本来は完全に許容されたる我々自身の自由を)制限してまでもそれを利用して差支えないことを私は認める」
名誉と恥辱は有害だけれど、場合によっては「利用」してよいし、それによって「我々自身の自由」を「制限」してもよい、と言うのだ。

スピノザの挙げる例。
「或る人が他人から尊敬されるために高価な衣服を身につけるとすれば、彼は単に自分自身への愛のみから発する名誉を求めている」
この或る人は、行動の第一原因を自己だと考えている、つまり誤った認識を持っているのであり、したがって単に有害なだけである。このとき彼は「何ら隣人〔の利益〕を考慮に入れていない」。このような場合の名誉や恥辱は単に有害なだけである。
ではどんな場合ならそれらは許容されるのか。

ここでスピノザが挙げる例に、僕は非常に共感した。
「しかし、自分が粗末な衣服をつけているばかりに、隣人を益し得る自分の知識が軽蔑され蹂躙されるのを見る時、隣人を助けようとする意図から、隣人の気を悪くしないような衣服をつけるのは、正しいやり方である」。
つまり、粗末な衣服を着ている人の言うことは、たとえそれが他人を益するものであっても聞いてもらいにくいから、「他人を益するため」に綺麗な服を着よう、ということである。
「これは、隣人に自分の考えを容れさせるためにまず隣人に順応するものである」。

僕は、自分の考えを他人に聞いてもらうために他人の趣向に「順応」しようとするのは、基本的には嫌いである。なぜなら、それは結局「自分のため」だからである。そこでは結局、他人は僕のための「道具」になってしまう。このような「自分のため」の行動は(おそらく全て)僕の不安に基づく強迫的なものであり、その強迫性によって結局は僕自身が苦しくなってしまう。だから嫌いだ。
でも、スピノザの言うような、「他人を益するため」の、自分において生じる「他人を益する可能性」を生かすための「順応」ならば、僕も苦しくならずにできる気がする。

……

……

ここからは僕の単なる思いつき。

スピノザには、自己の利益と他者の利益を区別する視点はない。
それは、自己も他者も結局は神という一つのものの現れだからだ、とも言えるが、この言い方だと何かスピノザの魅力が薄れてしまう気がする。

スピノザにおいて、神とは、一つの「もの」では「ない」、とも言える。
「もの」では「ない」。

スピノザは、ただただ「益する」ということだけを考えている。
「何を」益するのかは、あまり考えていない。
「何を」がないということが、神が「もの」ではないということである。
「もの」がない。
「もの」があると考えるということは、「もの」と「もの」との「区別」があると考えるということである。その区別に基づいて限定された範囲(「自分のために」とか)での利益を求めると、そこには強迫性が生じてしまう。少なくとも、その区別が「根源的」「絶対的」なものであると考えてしまったら、強迫的になる。なぜか。やっぱり、他者を「敵」だと思ってしまうからではなかろうか。他者から「攻撃」されると感じてしまうからではなかろうか。(なぜそう感じてしまうのか?)

「自分」と「他者」がいるという認識は誤っており、したがって有害である。「自分」と「他者」がいると認識しながらその「他者」を大切にすることは「不可能」である。(なぜ不可能なのか?)

そしてそれは、全ては「一つの」ものであると考えても結局同じである。「もの」には区別が前提されている。区別がなければ「もの」はありえない。
「もの」を前提する思考体系とは異なる思考体系を構築する必要がある。スピノザを読むことは、それに寄与する。

……

この記事は、『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(畠中尚志訳、岩波文庫)、第二部の第十二章に基づいている。引用も同箇所からである。旧字体等は適宜あらためている。