哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「説得」と「呼びかけ」

何かを他者に対して主張する時、
そのやり方によって、

「説得」タイプ
「呼びかけ」タイプ

この二種類に分けられるようだ(「説得」という語は國分功一郎の『スピノザの方法』から借用し、「呼びかけ」という語はハイデガーを参考にして僕が設定した)。


國分功一郎の『スピノザの方法』を読むと、
デカルトは「説得」タイプ、
スピノザは「呼びかけ」タイプ
に当てはまるようである。

最近フーコーを読み、僕が時々するハイデガーの話も聞いてくれる友人の話によれば、
フーコーは「説得」タイプ
ハイデガーは「呼びかけ」タイプ
に当てはまるようである。

……

違いは何か。
おそらく、自らの言動の、他者に対する「作用の仕方」をどのようなものにしたいか、の違いである。

「説得」タイプは、他者を「論駁」しようとする(「論駁」も『スピノザの方法』から借用)。自らの示す論理によって、「(私の言うように)考えざるをえないでしょう?」というところに、相手の考えを持っていくことを目指す。そして、その論理は議論の相手が「誰であっても」有効なものでなければならない。

「呼びかけ」タイプの内にある志向は、他者がある考えを「感得」「体得」するということである。「呼びかけ」タイプの話を聞いても、「考えざるをえない」というふうにはならない。そういう論理構成にはなっていない。その考えを受け取れる状態にある人だけが受け取れる、ということになる。
(とは言っても、「呼びかけ」タイプは「説得」タイプよりも論理的構築が甘い、といったことにはならない。「説得のために」論理的構築をしているわけではない、というだけである。)

……

別の観点から見よう。

「説得」タイプでは、その言葉が本質的に「他者に」向かっている。

「呼びかけ」タイプの言葉は、本質的には、どこにも向かっていないし、また、どこにでも向かっている。楽器を思い浮かべてみてほしい。楽器の出す音は全方向に向かっている。特定のどこを目指す、ということは楽器にはできない。

「説得」タイプの言葉は他者に向かっている、というのは、言い換えれば、他者に届きさえすればいい、ということである。その言葉は他者に届きさえすれば、そこでストップしていい。

「呼びかけ」タイプの言葉は、どこに向かっているということがないのだから、そのような「ストップしていい」地点はない。

……

最近フーコーを読んでいる友人によれば、フーコーは、まず「社会に存在している解決すべき個別的・具体的な問題」を設定し、その解決のために思想・論理を展開する、という形を取るようだ。

おそらく「説得」タイプは、自分の「外に」問題を設定する(それは必ずしも、「自分には問題がない」とその人が思っていることを意味しはしない。問題の「設定の仕方」がそうであるというだけである)。

「呼びかけ」タイプは、「個別的・具体的な問題」よりも、その背後にある、(人間や物事の)「あり方」というようなものを問題として設定しているのだと思う。

だから、「呼びかけ」タイプは、ある意味、問題を「どこに」設定するのかという観点がないとも言える。「あり方」とは、「個別的・具体的な問題」のような「局所的」なものではないからだ(その結果、自分の「内」に問題を設定しているように(とりわけ「説得」タイプからは)見えることもあるようだ)。

……
……
……

これは僕が感覚的になんとなく感じるというだけなのだが(←いつもそうか😅)、
他者に対して何かを主張する時の原動力は、

「説得」タイプの場合は、「怒り」
「呼びかけ」タイプの場合は、「悲しみ」

が大きいのではないか。
なんとなく、そう感じる。