高畑勲監督 『ホーホケキョとなりの山田くん』を鑑賞。
高畑勲監督作品で観たのは、たぶん、『平成狸合戦ぽんぽこ』と『おもひでぽろぽろ』だけだが、どちらもあまり好きではなかった記憶がある。どちらも、「外」を無視しているイメージ。「内」=「平穏な日常」を維持することが最優先なイメージ。
しかし、今回、『山田くん』を観て、なんとなく、そういうイメージには収まらないものを高畑勲に感じた。
高畑勲は、「内容」を持った「考え」によって作品を作っているわけではない。つまり、何か特定の考え方を伝える効果を作品に持たせようとは全く考えずに、作品を作っている。
……のかもしれない。
私にはまだ分からない。
「絵」と「動き」、高畑はこの二つによって作品を作っている。「ストーリー」「内容」「思想・信条」……こういうものたちは、高畑作品において、物語作品を作る際に必然的についてくる限りのものでしかない。
……などと思ったりもしたが、高畑作品群のストーリーには一定の傾向がある(少なくとも私が観た作品は)。これはどのように説明されるのか。
こんな家族が
となりにいて欲しい
DVDの箱の裏面にこう書いてあった。
「となりに」なのだ。
そう思ったら、この作品のタイトルが『となりの山田くん』なのを思い出した。
この作品で描かれるのは、私たちのことではない。私たちの「となりの」ことなのだ。私たちは「山田家」のようにはなれないし、かつてもそうだった。「山田家」は過去にも未来にも(そしてもちろん現在にも)いない。
高畑は、彼らのようになれとは言わないし、そんなことは微塵も思っていない。
高畑はなぜ、「山田家」を描いたのか。私たちを元気づけるためではない。私たちをノスタルジーに引き込むためでもない。現代社会を批判するためでもない。あるべき家族像の提示をしているのでもない。
山田くんが私たちのとなりにいるのではない。
私たちが山田くんのとなりにいるのだ。
私たちが、いるのだ。
この作品において、画面には背景がほとんど描かれない。少ない線でその曖昧な輪郭が浮かんでいるだけだ。
そこに私たちはいる。
したがって、この作品の中には私たちはほとんどいない、ということになる。
私たちは山田家には干渉しない。干渉できない。山田家はただとなりにあって、私たちは彼らを目にする。目にするだけで、特に何をするわけでもない。
私たちは私たちで生きている。
私たちは私たちで生きている。
山田家は山田家で生きている。
この二つの事態は並列的ではない。同じ類に属するものではない。
しかし、別のものでもない。
無関係ではないが、同等なものとして関係しているわけでもない。
私たちも山田家もそれぞれでそれぞれを生きている、とは言えない。「それぞれで」と語れるようなものではない。同じ地平で語れるようなものではない。
私たちは私たちで生きている。
山田家は山田家で生きている。
段落を変えるだけでは物足りないくらいだ。
これらは、例えば、野球選手Aさんが生きるのと今朝近所のゴミ捨て場をあさっていた一匹のカラスBが生きるのとの間にある違いと同じくらいに違う。
いや、世界Aと世界Bの違いと同じくらい違う、と言ってもいいかもしれない。
私たちは、生きているのだ。
私たちは、存在するのだ。
どうしようもなく、私たちは、いる。
この作品に描かれているような家族など存在しない。こんな平和な家族は存在しない。こんな表面的なだけの家族は存在しない。だから、この作品の中に私たちは存在しない。
この不在が、作品を観ている私たちを照射する。作品内の「不在」が、作品外の「在」を明るみに出す。「ここ(この作品)には私たちがいない」ということが、「ここ(まさに「ここ」、あらゆる「私」の「ここ」)に私はいる」ということを明かす。
これは私自身の個人的な感覚だが、「私が存在している」ということを、私は忘れがちだ。時々思い出す。思い出すと、「そうか、そういえば私は存在しているのだ」と思う。少しの重みを感じながら……。しかしまたすぐに忘れる。そしてまたいつか一瞬だけ思い出す。
私はおそらく、「私は存在していない」という考えをまだ捨てきれていないのだ。私が存在することを、諦め(=明らめ)きれていないのだ。
山田くんのとなりには、私がいる。必ず、いる。高畑勲はそれを、「山田家」という道化を目いっぱいに描くことで、私たちに教えてくれる。「諦めろ」とそれは言う。
……とは書いたものの、どうして私がこのように思ったのか、『山田くん』のどういう部分からこのような考えが生まれてきたのかが分からない。そもそもこの感想が『山田くん』の鑑賞から生じたものなのかも分からない。『山田くん』を見た時に、それとは関係なく、偶然に、「私は存在するのだ」ということを私が思い出しただけかもしれない。
私はまだ高畑作品を内在的に観ることができない。
―――
これを書いたのは2018年の8月。
このあと、『かぐや姫の物語』『火垂るの墓』『パンダコパンダ』を時間をおきながら観た。
まだ、僕には高畑勲が分からない(分ったからといって何ということもないのだけど)。
なんとなくだけど、、、宮崎駿作品が観る者を「巻き込んでいく」作品だとすれば、高畑勲作品は観るものを「ひとりにする」、という気がする。もう少し踏み込むなら、「物事に対してひとりで感じることを許してくれる」とでも言おうか……
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追記(2020年5月13日)
宮台真司の2008年の文章(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=604)に以下の記述を発見。関連するか。
「「家族御大切」は十五年ほど前、野島伸司脚本のテレビドラマ『ひとつ屋根の下』あたりから始まりました。当時も書きましたが、寺脇さんのおっしゃるような家族回帰に見えて、実際のところは現実の家族ではあり得ないというところが視聴者に明確に自覚されていたんですね。
[略]
ところで携帯小説とセカイ系に共通するのは、学校がよく舞台になるところです。むろん西谷祥子のロマコメ漫画や筒井康隆のジュブナイルなど、1960年代から学校を舞台にした娯楽読み物はあります。でも昨今の共通項として、「現実の学校を描いていない」ということがあります。
どういうことかというと、「現実の学校経験」は多種多様で共通前提にならないけれど、「あり得たかもしれない学校についての妄想」なら、「誰しも同じような妄想を抱いているよね」といった感覚に浸れるんです。家族についても同じように、皆が抱く「家族についての妄想」を描いているんじゃないかな。」