哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

僕の呆然

誰かが、僕の何らかの言動を受けて、怒るとする。

怒り方には二種類ある。

・僕に対して怒る場合
・僕の背後にある何か大きなもの(例えば「社会」とか)に対して怒る場合


僕に怒る場合、その怒りは、その場限りのものである。僕が怒りを招いたのだから、僕がいなくなれば怒りは消えるはずだ。

背後の大きなものに怒る場合、怒りはずーっと続く。僕の言動が生じる前からそれは存在し、僕がいなくなってもやはり存在し続ける。


僕の言動を受けて怒る人が、「僕に対して」怒っているなら、僕もそれに感化されて、僕の気持ちのボルテージも上がっていく(気持ちの種類は場合によって様々)。そこで「その人と僕と」のコミュニケーションが成立する。

しかし、その人が僕の背後にある大きなものに対して怒っているように感じると、僕は、なんだか、どうしたらよいか分からなくなってしまう。その人は、「僕に」は何も言ってい「ない」のだ。だから、僕も、「その人に」対して何かを言うことが難しくなる。
コミュニケーションの絶対的な断絶、とでも呼べるものがそこにはあり、僕はそれを目の前にして、しばし呆然としてしまう。

……

僕は、「大きなものに対する怒り」に共感することが下手なのかもしれない。
あるいは、「大きなものに対する怒り」とはそもそも共感の難しいものなのだろうか?
またあるいは、「大きなものに対する怒り」は共感という領域に関わる「べきではない」問題なのか。

……

僕がそこでできるのは、というかこれまで辛うじてやってきたのは、その怒りの奥にある悲しみに共感しようとすることだったと思う。それなら僕にもできた。悲しみへの共感から出発すれば、僕は「その人に」言葉をかけることが、辛うじて、できた。

でも、そうしてもたいてい、相互的なコミュニケーションは実現しない。相手が自身の悲しみを遮断しているからである。僕がいくら「その人に」向かおうとしても、その人は、僕の背後のなにものかに向かっている。

その時、僕は、悲しむことのできないその人の代わりに、悲しんでいるのかもしれない。

……

いや、実際どうなのかは分からない。
その人には悲しみなどないのかもしれないし、
あったとしても、僕は共感などできていないのかもしれない。
僕が勝手に共感している気になっているだけかもしれない。
僕の単なる妄想なのかもしれない。
僕は、その人に拒絶されるショックを和らげようとして、こんなふうに自己正当化をしているのかもしれない。

……
……
……

とは言っても、僕が実際のところ何をしているのかは、べつにどうでもいいことだ。

と思った。(なんで?)

……

追記(2020年6月6日)
「僕の呆然」というタイトルを書いた時、どこかで聞いた言葉をもじってるな、と思った。どこだったかと考えていたら、分かった。絲山秋子の小説『妻の超然』だ。本棚に入っているけど、まだ読んでいない。このタイトル、好きだな。