哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「生きる」ことと「死なない」こと

僕は、人の命を軽視している、と人から思われてしまうことがあるようだ。

それに関連する話を友人とLINEでしていて、そこで送った文章。ブログ用に修正はしています。


……

「命」と、「自由」とか「幸せ」とか「人間らしさ」とかは、べつに敵対している概念ではない。「命」も、「人間」の一側面である。

思うんだけど、「(「自由」や「幸せ」や「人間らしさ」を優先するなら)時には自分が死んでしまうことも、他者を殺してしまうこともある」みたいなことって、わし(やハイデガー?)の考え方の中には、本来は存在していないものなんじゃないだろうか。少なくとも、わしは、それが「言いたい」わけではない。敢えてそっち方向に論理を繋げればそうなる、とは言えるから、「命を維持すること」を第一に重視すべきだとする「命」第一主義者を論敵として設定してしまうとそう「言ってしまう」ことはあるんだけど。本来は、「命」って、わし(やハイデガー?)の考えの中では、そんなに重要なトピックですらない(「命」を重要なトピックにしないこと自体が批判の的になるのかもしれんが。レヴィナスとかデリダとかによる批判?)。

わしは、命を大事にしてないのではなくて、命が生きていない(≒生き生きしていない)のが嫌なんだと思う。っていうか、命に限らず何でもだけど。「命」第一主義においては、ある意味、命は死んでいる(命を「とにかく維持すべきもの」としてしか捉えないことで、命の可能性を狭めているから)。だから、「命」第一主義を論敵にすると、「(命を生かすには)命を落とす可能性も受け入れなければならない」と言ってしまうことになる。

でも、本来わしが言いたいのはそういうことじゃない。
わしは、生かしたい、のだ。

……

ハイデガーの死とは、「現存在の死」である。
それは「おのれの」ものであると言われるが、その「おのれの」は「自分の個人的な」ということを意味してはいない。つまり、そこで意味されているのは、他者の死と対立するものとしての自分の死ではない。
「死はおのれのもっとも固有な可能性である」とこの前書いたけど、それは記憶をたどって書いたので、ハイデガーが「そのまま」そう言っている箇所があるのかは分からない。今のところ見つかるのは、「死とは現存在のもっとも固有な可能性である」(263)である。「死は、現存在であることの絶対的な不可能性という可能性なのである」(250)。死は、「現存在であることの」不可能性という可能性である。「死」は、個体の死ではない。「であること」の不可能性である。つまり、ここでの死は、モノの死ではない。コトの死である。存在「者」の死ではなく、(現)存在の死である。死は「であること」の死である。つまり、死は、「であること」にしか関わらない。「であること」以外のもの、つまり、あらゆる存在「者」、には関わらない。だから、死は、(現)存在の最も固有な可能性であることができるのだ。
「現存在には、不安のなかで露呈されたおのれ自身の存在しうること以外に、何が残されているのであろうか〔「何が」はイタリック〕。この存在しうることへとかかわりゆくこと、ただただこのことだけが現存在には問題なのだが、そうした存在しうることへの呼びさましとして呼ぶ以外に、どのように現存在は呼ぶというのであろうか」(277)。
(「不安」とは、「死に対する不安」であり、死を最も固有な可能性として持つ現存在(≒人間)が必然的に置かれている「情状性(=気分)」である)

そして、死とは、不可能性という可能性である。死とは、可能性である。死は、「現実的なもの」ではない。
「第一に、死は、可能的なものではあるが、いかなる可能的な道具的存在者ないしは事物的存在者でもなく、現存在の一つの存在可能性なのである〔「現存在」はイタリック〕。しかも第二に、この可能的なものの現実化を配慮的に気遣うことこそ、実は、落命を招くということを意味せざるをえないであろう。だが、そうなれば現存在は、死へと実存しつつかかわるなんらかの存在、まさにそうした存在のための地盤を、みずから取り去ってしまうことになるであろう。
 それゆえ、死へとかかわる存在によって死の「現実化」ということが考えられていないとすれば、死へとかかわる存在は、その可能性における終わりのことでうじうじと思い悩むことを意味することはできない。そうした態度は、「死のことを考える」ときにはみられるでもあろう。[略]これに反して、死へとかかわる存在においては、それがすでに性格づけられた可能性をそのとおりのものとして了解しつつ開示すべきだとすれば〔「そのとおりのものとして」はイタリック〕、可能性は弱められることなく可能性として了解されなければならず、可能性として形成しあげられなければならず〔「可能性として」(二箇所)はイタリック〕、またその可能性へととる態度のうちで可能性として持ちこたえられなければならないのである〔「可能性として持ちこたえられ」はイタリック〕」(261)。

……

わしは、「死んでもいい」などと言いたくない。言う必要もない。
また、死においては、自分も他者もない(自分や他者は存在「者」だから)。

ハイデガーは、ある意味では、「生きる」ことしか考えていない。
「生きる」ことしか考えていないということは、「死なない」ことは考えていないということだから、それが批判の的になるのだろう。
「死なない」ことを考えることは、存在「者」(自分や他者)について考えることである。
「生きる」ことを考えることは、(現)存在(現存在であること、存在しうること)について考えることである。

「生きる」ことと「死なない」こと、どちらが人間にとって根源的であるか。
人間は、「死なないために」生きているのではない。人間は、「生きるために」生きているのではないか?
だとすれば、より根源的なのは、「生きる」ことである。

それは、「死なない」ことを重視していないという意味で、「死ぬ」こと、「殺す」ことを容認しているかのように見えてしまうこともあるのだろう。しかし、そのように見てしまう人に対して言いたいのは、あくまでも「生きる」ことを志向しているのだということ、そして、その「生きる」ことにおいて「自分」も「他者」もないのだ(だから、「自分が生きるために他者を殺す」という志向はありえない)ということである。

……