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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

スピノザにおいて明瞭判然たる認識が必要となる理由

 スピノザは、認識の生じ方(作られ方)を4つに分けている。

1、伝聞から生ずる
2、経験から生ずる
3、理性(の推理)によって生ずる
4、明瞭判然たる認識によって生ずる

https://tani55sho44.hatenablog.com/entry/2021/02/22/135118
 上の記事の中で僕は、「3の認識までいけば良いと思うが、しかしスピノザは4の認識を持ち出してくる」といった旨のことを書いた。
 なぜ4の認識が持ち出される必要があったのか?

 『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』の第二部・第二一章でスピノザは以下のように述べている。

 「我々が我々自身の中に見出すすべてのものは外部から我々に来るものより我々の上に大きな力を及ぼす」。「この帰結として、理性は、我々が単に伝聞のみによって得た意見を消滅する原因たり得る(我々にとって理性は外部から来たものではないから)」。
 伝聞による認識は我々の外部から来るものに基づいている(自分で自分に伝聞するというのはありえない)。理性による認識は我々の外部から来るものには基づかない(スピノザによってそう定義されている)。

 「だが」、とスピノザは続ける。
 「だが、[理性は:谷]我々が経験によって得た意見を消滅する原因には決してならない」。
 理性による認識は経験によって得た意見に勝てない!!のである。
 「何故なら、事物自身が我々に与える力は、我々が他物の結果から得る力よりも常に大だからである」。
 これについてスピノザは、「理性推理と明瞭な知性について語った時すでに注意したところである」と述べる。理性推理→3の認識、明瞭な知性→4の認識。つまり、「我々が他物の結果から得る力」と「事物自身が我々に与える力」の区別を、3の認識と4の認識の区別との類比によって説明している。
 いわく、「比例自身の認識からは、比例法則の認識からよりも、一層多くの力が我々に生ずる」。つまり、比例の「具体的な」数字(1・2・4・8・16…)等を見た場合の方が、「抽象的な」法則を知る場合よりも、生じる「力」が大きい、というわけだ。

 上記の記事でも書いたが、3の認識では、認識される事物は我々に直接見られているのではなく精神によって我々に知られているだけである。それに対して4の認識では、事物は我々に直接感覚され享受されている。3の認識は「抽象的」で4の認識は「具体的」である。
 したがって、3の認識よりも4の認識の方が「力」が大きい。

 そして、これは3の認識と2の認識(=経験から生ずる認識)の対比にも当てはまるのだ。
 3の認識は絶対確実な認識である。対して2の認識は経験的認識、言い換えれば帰納的認識であり、したがって絶対確実な認識にはなりえない(赤いトマトしか見たことがないからと言って、この世にあるトマトがすべて赤いとは言い切れない)。しかし、2の認識が我々にもたらす「力」は3の認識がもたらす「力」よりも大きいのである。その理由は、2の認識は「事物自身」によって生じる力であり、3の認識は「他物」によって生じる力であることである。「事物自身」とは「具体的な」個物であり、「他物」とは理性によってつくられたものである。赤いトマトを直接的に目の前で見ることによって生じる「赤いトマト(!)」という印象と、トマトを生物学的・植物学的に分析した結果として得た「赤いトマトもあれば赤くないトマトもある」という知とでは、前者の方がその「力」が強いのである。

「経験を通して生ずるものは[略]或る物の享受ないしそれとの直接的合一にほかならないのであるが、これに反し理性は[略]それを享受させはしない、そして我々が我々のうちに享受するところのものは、我々が享受しないもの、我々の外に在るもの(理性の指示するのはそうしたものである)によって征服されえない」

 2の認識は事物の「享受」ないし事物との「直接的合一」である。3の認識はそうではない。3の認識において事物は我々と「合一」しない。そこでは事物は常に「我々の外に在る」。だから2の認識=経験からの生ずる認識の方が、3の認識=理性によって生ずる認識よりも「力」が大きく、前者は後者に「征服されえない」のである。

 しかし、認識において重要なのは「力」の強さだけではない。その認識の「誤りのなさ」、そして、それが「幸福をもたらすかどうか」が重要である(スピノザにおいて、誤りのない認識は必然的に幸福をもたらす認識である)。
 2の認識は、前述したとおり誤りうる認識である。
 だから、4の認識=明瞭判然たる認識が必要となるのである。つまり、「事物自身」の「享受」ないし「事物自身」との「直接的合一」であり且つ誤りのない認識が。
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この記事は、『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(畠中尚志訳、岩波文庫)第二部・第二一章に基づいている。引用も同箇所からである。旧字体等は適宜あらためている。