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谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

スピノザの認識についての覚書

スピノザは、認識の生じ方(作られ方)について、述べている。

1、伝聞から生ずる
2、経験から生ずる
3、理性(の推理)によって生ずる
4、明瞭判然たる認識によって生ずる

例えば比例法則。
「第二の数に第三の数を乗じ第一の数で除すると、第二の数が第一の数に対すると同じ割合を第三の数に対して有する第四の数が出てくる」。

1、この法則について伝聞で知っただけでそれを用いる人。
「彼は、これを伝えた人が嘘を言ったかもしれないなどいうことは考えずに」それを用いる。「盲目者が色彩について有する以上の知識を比例法則について有することなしに」、つまり、色を見たことのない者が色について有する程度の知識しか持たずに。それはあたかも、「鸚鵡が人から教えられたことをしゃべるようにしゃべったに過ぎない」。彼は誤りうる。

2、経験から知る人
彼は「単なる伝聞ではそう容易に満足せず、実際に若干の計算でこれを試し、その計算がそれと一致するのを見た上でそれに信を置く」。彼も誤りうる。「何故なら、若干の特殊な場合の経験がすべての場合の規則たり得る」わけではないから。

3、理性(の推理)によって知る人
彼は伝聞や経験では満足せず、「真の理性に諮る」。「理性は、これらの数に於ける比例の性質に依ってそれがかくかくであってそれ以外であり得ず又それ以外になり得ないことを彼に告げる」。「理性は、正しく用いさえすれば、決して人を欺くことがない」。

4、明瞭判然たる認識によって知る人
彼は「極めて明瞭な認識を有していて、伝聞をも経験をもまた推理術をも必要としない」。「何故なら彼は、直観に依って一挙にすべてのそうした計算の中に比例性を観てとるから」。

……

数学ができない人は、公式を覚えることに力を使う傾向がある気がする。
そして、問題を解くにあたって、覚えた公式を、出された問題の数字に「当てはめ」ようとする。
これは、第一に挙げた「伝聞」の人の傾向である。「鸚鵡返し」の人。

第二(経験)の認識の仕方でもまだ足りない。
これは、人生で最初に見たトマトが黄色いトマトだったから「トマトは黄色いものだ」と思うようなものである。

第三(理性)までいければ、よい。
「○○すれば××になる」ということが分かるだけでなく、
○○すれば××になるのは何故なのか、どのような理屈でそうなるのか、が分かる。
ここまでいけばよい。普通はここで終わる。

しかし、スピノザは第四の認識を出してくる。
「明瞭な認識」
「直観」
「一挙に観てとる」

……

スピノザは、1と2をまとめて「臆見」と呼び、3を「信念」、4を「明瞭な認識」と呼ぶ。

「信念」と「明瞭な認識」の違いは、認識の重心が、我々(人間、理性)の側にあるか、認識される事物の側にあるか、である。

「信念」は理性によって把握される。
「我々が単に理性に依って把握する事物は我々に観られているのでなく、ただ精神の確信に依って、それがそうでありそれ以外でないことが我々に識られているに過ぎぬ」。

それに対して「明瞭な認識」の場合、「理性の確信に依ってではなく、事物それ自身を感覚し享受することに依って生ずる」。
スピノザは、この認識が最も優れた認識であると言う。

……

「臆見」
「信念」
「明瞭な認識」
この三つから何が結果するか。
「第一のものからは善き理性に矛盾するすべての感情(Lijdinge)が生ずる」。
「第二のものからは善き欲望が」生ずる。
「第三のものからは真にして正しき愛がそのすべての派生物と共に生ずる」。

……
……

この記事は、『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』(畠中尚志訳、岩波文庫)、第二部の第一章・第二章に基づいている。引用も同箇所からである。旧字体等は適宜あらためている。