哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

「決める」こと

 この前、病院の精神科に行った時に、医師から、「自分の軸を決めよう」と言われた。自分の軸、言い換えれば、「自分は何をしたいのか」「自分はどの方向で生きていきたいのか」。

 僕は最近、正社員で働こうとしている。
 今度面接に行く。

 アルバイトではなくちゃんとがっつり働こうとするのは、だいたい7年ぶりである。

 僕は大学4年生の夏休み前に退学届を提出し、建設業の作業員として働き始めた。その時はこの仕事でずっと生きていこうと思っていた。
 でも、いろいろあって、考え直して、退学を取り消し(月に一度の学内会議で退学受理の手続きが完了するのだが、その会議より前に取り消しを申請したので間に合った)、大学に戻った。作業員の仕事は結局夏休みの2ヶ月間だけやって辞めた。

 そのあたりの期間は、いろんな人がいろんな言葉を僕にかけてくれた。愛を感じたこともあった。相手の人生を感じたこともあった。貴重な期間だったと思う。

 今の気持ちはその時の気持ちとは違うけど。
 でも、「考えなし」なのは同じかも、と思う。

 なぜ働くのかとか、働いてどうなるのかとか、働いてどうしたいのかとか、結局のところ、分かっていない。もちろんいろいろ考えた末に働こうと思ったのだけど、結局のところ、大事なところは見えないままだ。
 踏み出す先が見えないけど、でも、踏み出す。そういう時が、今までに何度かあった。大事なことは、だいたい、先が見えないものなのだろうか。少なくとも、先が見えなくても踏み出そうと思うくらいには僕自身がそれを大事だ「と感じている」、ということは言えるかもしれない。

 精神科の医師は、「自分の軸」と言った。
 軸を「決める」、、、

 先が見えないけど、決める。
 どうなるか分からないけど、決める。

 たぶん、始めてみても、しばらくの間は、どうなるのか、どうなっているのか、は分からないだろう。しばらくたって、分かるときが来るまで、待たなければならないだろう。

 だから、「決める」ことは、「待つ」ことの決意でもあるのだろう。
 「決める」ことは、決めたらそれで終わり、踏み出したらそれで終わり、ではない。
 「決める」ことは、決めるその「瞬間」のことだけではない。
 「決める」ことは、時間的な幅を持つ。
 いやになっても、何かが分かるまでは、とにかく続ける。「決める」とはおそらくそういうことだ。
 そして、何かが分かったら、また新たに「決める」のだろう。その時も、きっと先は見えないのだろう。決めたら、また、見えるまで待つのだろう。
 そうやって、続いていく。

 ……のか??

……

 ……とかなんとか、理屈(?)コネコネ言ってますけど、働くのが嫌な自分をなんとか鼓舞しようとしてるだけの文章かもしれん、これ。