哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

言葉、動き

〇〇をする、と決めるとする。

すると決めた内容と、実際にすることの内容は、直接的には関係ない。そこに直接的な因果関係はない。すると決めたからそれをする、というのは、自然因果的な力ではない。

仕事をする、と決めたからといって、仕事をするとは限らない。
逆に、仕事をする、と決めたからこそ、仕事ができなくなるということも想定されうる。
また逆に、仕事をしたくない、と駄々をこね続けたからこそ、仕事ができるようになる、ということもある。


こんなことがあった。
仕事や恋愛など様々なことを含む僕のこれからのことについて、「どうしたらいいだろう」という相談を友達にした。友達は、こうしたらいいんじゃないかああしたらいいんじゃないか、といろいろな選択肢を提案してくれた。しかし、僕はそれらをほとんど拒否した。「これはこうこうこういう理由があるからできない」。まあつまり、どんな提案にも、できない理由をこじつけたわけである。「できないできない」「やりたくないやりたくない」と駄々をこねたわけである。友達は、どんな提案も受け入れない僕にうんざりしていた。その日はそのまま終わった。結局、友達の提案はなんの意味もなかったかのように見えた。

僕はその後、ある選択をし、行動した。それは友達の提案した選択肢ではなく、僕が勝手に決めた選択肢だった。

でも、友達がいくつもの選択肢を提案してくれたことは全く無意味ではなかった、と僕は感じる。確実に、あの日の友達との会話は今の僕を形作っている。


言葉は意味を持つ。
だから、勘違いされることも多いかもしれない。

例えば、
Aさん「結婚してください」
Bさん「はい」
というやりとり。

これは、言葉の意味としては、結婚の要求とその承諾である。だから、言葉の意味だけを見れば、この2人はこれから結婚をするのだろうと思える。

しかし、言葉は意味のみで存在するわけではない。
言葉は、口に出すなら、空気の振動である。
言葉は、ペンで書くなら、インクの連なりである。
それは物体である。
物体であるとするなら、それは物体の世界の法則に従って動き、作用する。

Aさん「結婚してください」
Bさん「はい」

このやり取りがあったからこそ、結婚ができなくなる、ということはありうる。それは、言葉が意味だけの存在ではなく、物体であるからである。

……

ここまで、「意味」と「物体」を分けて、それらを別物として述べてきた。

でも本当は、僕は、意味も物体の一側面だと思っている。

もう少し抽象化して言えば、物体とは「力の宿るもの」である。僕はそう捉えているのだと思う。
「力」とは、何かが動いたり何かを動かしたりする時に働くなにものかである。

……

いや、もはや「力」というものを想定する必要もないのかもしれない。
世界とは、動いたり動かされたりするものの集合である。
僕が言いたいことは、それ以上でも以下でもない。のだろうか。


このあたりのことは、あとで(いつになるか分からないが)整理してまとめたいと思っている。