哲学、読書、演劇、思ったこと。

谷翔です。読書メモ以外はnoteで書くことにした→https://note.com/syosyotanisho10

隠す

今から自分が言おうとしている言葉が、自分でもどういうことを意味しているのか分からない時、その言葉を発するのは、結構怖いものである。

すごく仲のいい人を前にしてなら、怖さは少なくなりそう。

あるいは、「そういう場」(例えば哲学カフェとか)なら怖さは少なそう。

そうでなければ、怖い。
相手にどんなふうに受け取られるのか分からないし、
どう受け取られても、こちらから「訂正」するのが難しそうに感じる(そう感じるのは、言う「前」であろう。言った「後」は、自分が何を言いたいのかが分かってきて、「訂正」もできることが多い)。
ものすごく「間違った」こと(単に事実として間違ったこともそうだし、差別的なこととかもそう)を言うかもしれないし、
相手をひどく傷つける結果を招いてしまうかもしれない。

だから怖い。

でも、言いたい。
僕は言いたい。
他者の前で、言いたい。

もちろん、どんな場面で言うのかを全く考慮しないつもりではない。僕は考慮するだろう(だって僕の言葉の結果ひとが死んだりしたら嫌だし)。

しかし、いつかは、どこかでは、他者の前で言いたい。

他者とは、未来の自分も含むと思う。
だから、自分しか読まないノートなどに書いておいて、数年後に読み返す、というのもアリではある。

いや、今の自分も含むのかな。
今の自分でも、自分には見えていない自分がいる。
だから、今の自分も他者になりうる。か。


なぜ言いたいのかと言えば、、、
これは難しい問いだが、
「隠しておく」のが嫌いだから、と言ってみよう。

「隠しておく」のが嫌い。
自分に対して自分のことを隠しておきたくない。

他者の前で言葉にすると、
その言葉に対して、予想外の反応が返ってくる。
と言うか、「予想外の反応を返す何者か」が「他者」の定義である、とする(だから自分も他者に含まれうるのだ)。

予想外の反応が返ってくると、
自分の言葉が何を意味しているのかが分かってくる。

自分の言葉が何を意味しているのかを理解することは、
やはり怖いことである。
自分を知るのは怖いことである。
自分の知らなかった自分の欲望を知るのは怖いことである。
これまで慣れてきた自分が変わってしまうかも、と思うから、怖い。

だから、隠したい。
自分を隠しておきたい。

という思いも、もちろん僕の中にはある。

でも、隠したい思いに従うことは、
僕を不健康にさせる。
文字通り、体調が悪くなる。

隠すことは、
抑圧するということ、
つまり、我慢するということだからだ。

我慢は体に毒だ……

でも、
体調が悪いということさえ、
人間は自分に対して隠しておくことができる。
(それが極まると突然過労死したり自殺したりする)

人間ってすごいね。

僕は隠すのが嫌いです。